レコードのある部屋 5

 皇紀二千六百年奉祝のためにブリテンが作曲した『シンフォニア・ダ・レクイエム』
は、当然のごとく当時の日本政府から拒否されて、披露されることはなかったと記されて
います。
 三浦淳史さんは、このブリテンがこの作品を送ったことを意図的としていますが、これ
は、ブリテンさんが当時の日本の在り方(軍国時代の)に批判的であったことをいって
います。そうであれば、作曲することを断ればよろしいのかもしれませんが、そうでは
なく、問題となるような作品を提出するというのが、ブリテン流なのでしょう。
 当時のブリテンは、詩人のW・H・オーデンの強い影響を受けていたとあります。
「仕事のため、二人が初めて会ったは、1935年のことであるから、ブリテン二十二歳、
オーデン二十八歳のときである。当時ブリテンはまだ無名にひとしい作曲家であったが、
オーデンはすでに新進詩人としてイギリス詩壇に進出したばかりでなく、新しい史の方向
を示す指導的な人物であった。彼を中心とする”オーデン・グループ”と呼ばれた一派は
英詩壇の最左翼を以て任じていた。・・・オーデンとの友情はブリテンにかなり深甚な
影響を及ぼした。」
 皇紀二千六百年というのは、1940(昭和15)年のことですから、二人が初めて出会っ
て5年後のことで、その前年には米国に滞在しているオーデンのもとを訪ねて、ブリテン
は大西洋を渡ったとありますので、奉祝曲を作曲する時期と、オーデンの近くで暮らして
いた時期がかぶることです。
 まあ、このような経歴の作曲家に依嘱することにした英国の外交機関というのは、どう
いうことを考えていたのでありましょう。
「『シンフォニア・ダ・レクイエム』が時の日本政府から拒否されたとき、ブリテン
オーデンにうながされて、抗議文をつくり、日本の外交機関に送ったというが、いまだ
にそのコピーは公表されていない。
 ブリテンが初めて来日したとき、彼はそんないきさつにはいっさいふれず、けろっと
した顔をして自作をふったものだ。迎えるほうも迎えるほうで、日刊紙も何ごともなかっ
たかのように曲目をのせ、大勢の当時の若者たちが盛んな拍手を送っていた。
 それでいいのである。」
 日本でブリテン指揮によって演奏されたのは、皇紀二千六百年から16年後のことで
ありまして、日本の国体は変化しておりまして、拒否した国と今の国は別の国という
認識でありましたのでしょう。