工藤正廣新訳 3

 工藤正廣さんの翻訳が最初に刊行されたのは、「蒼ざめた馬 ロープシン晶文社
1967 (晶文選書)」とあります。時代でありますので、これは当時の学生にそこそこ
読まれていたでしょうが、これと五木寛之さんが直木賞を受けた作品がシンクロ
するのでありました。当時の五木寛之さんは、それこそいかした作家さんでありま
したからね。当方は高校生くらいでありましたら、この時代に初期の五木作品を
読んだ記憶があるのですが、たぶんそれは小説雑誌に掲載のものであったので
しょう。(当時、単行本を買うことはなかったですし、小説雑誌は同じ下宿にいた
単身赴任の中年男性が定期購読をしていて、その方が読んで捨てられていたもの
を回収して読んでいましたから。)
 でも五木さんを起点として工藤正廣さんにたどりついたのではなかったですね。
 これは北海道つながりともいう縁であります。当方が大学の二年目くらいの時
でしたでしょうか。他大学からドイツ語を教えにきていたいかにもかって活動家と
いう風体の講師がいまして、この方、出身は大阪でありましたが流れて大学は
北海道大学へといかれ、大学院を卒業してから薬科大学の講師かなにかにもぐり
こんでいたのでした。
 語学教師には退屈していて、学生たちになにか知的な刺激を与えたいという
感じでちょっかいをかけてくるのでした。当方が北海道出身ということで、
おもしろがってくれたのか、すこし話をするようになっていました。
当方が学生時代に、教師と個人的ともいえるつきあいをしたというのは、この教師
だけでありまして、古い手帖をみると喫茶店で話をしたとか書いてありました。
 一度はのこのことついてその教師の本務校までいったことがありました。
薬科大学ですからすこしリッチそうな女子学生が多く、教師はここですこし欲求不満
に陥っていたものでしょう。
 けっこう過激な思想傾向をもっていましたので、ちゃんとつとまるのかと学生の
ほうが心配を(こちらが若年寄のようなせいもあって)してしまいました。
 この教師は、北海道大学で専攻はことなるものの工藤正廣さんとほぼ同じ頃に
通っていて、文学仲間でありました。当方が工藤さんの存在を教えられたのは、
この教師からでありました。この教師とのつきあいは、その1年のみであって、
また遊びに来なよといわれたと思うのですが、当時は携帯電話もeメールもない
時代で、連絡をするにはがきというのが当方の流儀でしたので、億劫になった
か、それっきりとなってしまいました。
 1972年札幌の小さな出版社 創映出版( 詩人の江原光太さんがやっていた一人
出版社)が工藤正廣さんの詩集「桜桃の村にむけて」というのをだしまして、それ
を帰省したときに求めました。時間がなくて、すぐに見つけることはできないの
でありますが、これには「生駒に住む友へ」というような副題(?)のついた
詩があって、これこそその教師におくられた詩でありました。
 この教師のことは、それ以来会うこともなく、どこの大学で勤務しているのか、
調べようにも本名を知らず、わずかペンネームを知るのみでありました。
この時代は語学教師には冬の時代だから、あの調子であれば、とっくに人員整理
にでもなっているのではと思っていましたが、工藤正廣さんのことに関連して
ペンネームで検索をしましたら、池田浩士さんの記したもののなかに、53歳で
亡くなった奥野路介とありました。健在であれば現在70歳くらいでありましょう
から、当方より7、8歳上となるはずです。とすると当方が教えをうけた頃は、
いまだ30歳前ということになります。血気さかんな頃でありまして、北海道つな
がりというだけで、当方をかわいがってくれたことに、いまさらながら感謝で
あります。