本日のブックオフで

 久しぶりにブックオフへと足をのばしました。ブックオフでの予算はワンコインで
五百円(税別)となります。本日は、以前から目をつけていた、次の本を購入です。

”秋田雨雀”紀行

”秋田雨雀”紀行

 パステルナークの翻訳者として著名な工藤正廣さんによる著作。これの帯には、次の
ようにあります。
「 ロシア語・ロシア文学の血脈 秋田雨雀(1883〜1962)の師承を意識した著者が
 雨雀の初期短編から百年前の故郷<黒石>を呼び出す批評語り!」
 この本の書き出しから引用です。
「文学と言ってもマイナー(つつましい)な作家詩人たちというのは、生前でもさほど
瞠目されず、また死後の歴史にあっては、ますます影が薄く、在ったのか無かったのか
さえおぼろになって行くというのが人の記憶である。
 にもかかわらず、興味深いことには、マイナーな作家ほど、実は特別に少数派によっ
て愛され、大切にされるという事実も、忘れるわけにいかない。売れた作家というのは
のちのちまで、本は手に入るし、読みつがれる。しかし、これもまたそれほどの時間と
は言われまい。メジャーな作家もまたやがて色褪せる。そのように変転する道理である
が、こうした変転のさなかで、実はいちばん安定して批評や評価や関心、愛惜をひきよ
せるのは、マイナーな者たちであるのかもしれない。」
 今となっては、マイナーな存在である秋田雨雀さんについて書きおこすのに、以上の
ようにはじめています。
 当方は、かろうじて秋田雨雀さんの名前は承知していましたが、故郷が青森県黒石で
あるというのは知りませんでした。どうして頭に名前がすり込まれていたかというと、
それは高杉一郎さんの著作に登場するからであります。
 秋田さんはエスペランチストとして著名でしたが、秋田さんがエスペラントを学んだ
のはワシリー・エロシェンコからでありました。
高杉さんによるエロシェンコ評伝「夜明け前の歌」には、秋田雨雀さんとエロシェンコ
がはじめて出会ったときの様子が描かれています。「1915年(大正四年)の春さき、彼(エロシェンコ)は雑司ヶ谷にある鬼子母神の森を
さまよっていた。そして、見知らぬ日本人から話しかけられた。彼らは森のなかの切株
のうえに腰をおろして、古い友だちのようにながいあいだ話しこんだ。そして、それ
以後、二人ははなれることのできない親友になった。その日本人というのは、秋田雨雀
である。二人の出あいは、彼ら自身のためにも、『冬の時代』の厚い氷を破ろうとして
いた日本の文学のためにも、すくなからぬ意味をもつことになった。エロシェンコ
雨雀を通じて日本のエスペランティストや盲人たちだけとのかぎられた交友から脱けだ
して、ひろく日本の文学者や社会主義者たちとむすばれることになったし、雨雀は
エロシェンコによってエスペラントを知り、生きる勇気をあたえられ、それまで陥って
いたふかい絶望を克服することができた。」
 エロシェンコの日本での作品集「夜明け前の歌」は、1921年秋田雨雀さんの翻訳で
刊行されました。秋田さんがエスペラントを学んで5年ほどたってのことですが、高杉
一郎さんが引用している秋田雨雀日記によると、「三ヶ月ほどで、ほぼこの言葉を会得
した」とあるのだそうです。