高知つながり 5

 1947(昭和22)年に発表された「幸徳秋水の墓」という随筆で描かれたことは、後年
になってから上林さんの小説の中に再びでてきます。
 その作品が掲載されているのは、次の本となります。

朱色の卵 (1972年)

朱色の卵 (1972年)

 このなかに上林さん晩年の傑作「四万十川幻想」があります。ここに幸徳秋水の墓参
の話題が登場します。
「『秋水の墓を見に行かうか』朝飯のあとでY君(注 図書館長で郷土史家)が言った。
 私ははじめて幸徳秋水の墓を弔うた。戦時中までは禁断の墓だった。秋水の墓は簡易
裁判所の裏手、正福寺の墓地にあった。山の崖が迫っているので、狭い墓地だった。
政治家で秋水の親友であった三申小泉策太郎の書いた『幸徳秋水墓』といふ文字目立つ
だけで、その他には目立つものは何もなかった。ごく普通の小さな墓だった。秋水は
反逆者であるから、大きな墓をたてることが許されなかったのである。」
 上林さんはほとんど病床六尺の世界の住人となって、故郷へ帰省することもできなく
なっているのですが、それだけ故郷への思いはつのるばかりとなります。こどもの頃を
過ごし、上京してからも帰省を楽しみにしていた故郷には、両親が住んでおりました。
四万十川幻想」は、「私は目下中風で寝てゐる。ふたたび故郷に帰って、四万十川
を見ることはあるまい。それを思ふと淋しい。」と気持ちを綴ったものです。
 幸徳秋水に関しては、「幸徳秋水の甥」という随筆を書き、それを単行本のタイトル
にしているくらいですから、反逆人とは思っていなかったようであります。
 秋水の甥 幸徳幸衛さんについてのことです。
「私はかって、幸徳秋水の甥、幸衛さんの生涯に非常に興味を抱いたことがあった。
その数奇なる運命を作品にしたいものだと思ひ立ったことであった。そのため、
幸衛さんの足跡をたどったり、身寄りの人やパトロンの人たちから幸衛さんの挿話を
聞かせてもらった。・・・ 
 明治43年、いはゆる大逆事件が起って、翌年秋水は刑死した。幸衛さんはそれを日本
人街で知った。・・
 この事件は、幸衛さんに衝撃を与へた。これからのち、幸衛さんは自分の号を『死影』
とした。自分は死の影を背負うてゐるか、死の影におびやかされてゐるか。いや、生きて
ゐるのに死人となってしまった。幸衛さんは、これ以後の人生は死人の生涯だと思っ
た。」
 最近でも、世間を騒がせるような事件を起こした犯人の家族には、いろいろな力がはた
らいて、そこに住み続けることが難しくなるというようなことを聞いたことがあります。
戦前において、国家に反逆したといわれる人の親戚であるというのは、どれだけ大変な
ことでありましたでしょう。