平凡社つながり 6

 梁山泊のようなかっての平凡社には、近藤憲二さんのような押さえのきく人がいた
のでありますね。
 小林さんが文中にある近藤さんです。
「近藤さんはアナキスト大杉栄の子分格の人で、のちに平凡社から『一無政府主義者
の回想』(1965)という本を出している。奥さんは堺利彦の長女で、婦人運動家とし
て知られた近藤真柄さんである。近藤さんは戦前から下中弥三郎社長と親しく、この
ときは百科事典の次長として、編集・校閲・印刷の進行をつかさどる役をつとめて
いた。」
 この近藤さんは、大沢さんの本によると『職場で倒れ、救急車で自宅に運ばれた。
それから十年、寝たきりの闘病生活が続き、その間のご家族のご苦労は筆舌に尽くせ
ぬものがあった。』のだそうです。
 秋山さんが引き合わせてくれた近藤さんは、小林さんに「今年(1954年)から学科
試験をすることになった。」と言ったのだそうです。理由は、もちろん志望者が多い
ことによります。
 小林さんの本から、その下りを引用です。
「これまで推薦や縁故で編集者を入れてきたが、このたびは志望者がたいへん多く、
編集委員に予定している人々からもいろいろ推薦がきていて、ことわりきれない。
そこで学科試験ということになった。あなたがこの試験に受からないことには何も
力添えはできないが、どんな部門を希望するのかと聞かれた。」
 学科試験は受かった小林さんですが、大学の卒業証明がなくて、書類不備で問題
になったのだそうですが、そのときに近藤さんが助け船をだしてくれて、役員面接に
こぎつけることができたそうです。(そのせいで、入社後は、小林さんはアナキスト
であると思われていたとあります。)
 このあとの役員面接は、下中弥三郎社長と林達夫編集長であったそうです。
これはなかなか情実のはいりこむ余地はなさそうであります。