平凡社つながり 7

 小林祥一郎さんは、この採用試験を通って、晴れて平凡社に入社し、百科事典の
編集部に配属されます。大学を卒業してすぐに「新日本文学会事務局」に入ったの
ですが、これはとっても普通の就職先とはいえないことでありますが、これをやめた
のは、当時の編集長である花田清輝さんが罷免されたことに抗議しての辞職でありま
した。新日本文学会事務局に誘ってくれたのは、武井昭夫さんでありますし、新日本
文学といっても、文学運動というより政治運動的な面が強かったのかもしれません。
 平凡社に入社しても、「新日本文学」との関わりはかわらずで、1966年には新日本
文学の編集長になってしまいます。
「『新日本文学』の編集長時代には、久保覚さんがまた編集を助けてくれた。学校を
出てまもない津野海太郎さにゃ、河出書房新社『文藝』編集長になった福島紀幸さん
ら、のちにいい仕事をする優秀な若者がしばらく編集部にいたのは、わあしが編集長
になる前のことで、彼らの縁で、のちに早稲田大学ロシア文学教授になった水野
忠夫さんや、詩人の長田弘さんら、若い人たちも出入りするようになった。しかし、
わたしの片手間の編集長は惰性に流れ、わずか巻末の『編集者の手帖』を書くだけ
で、めだった試みもなく一年後に辞職した。」
 新日本文学編集長時代の小林さんは、平凡社においては、雑誌「太陽」の編集長
をつとめていた時期で、この「二つの仕事が、じぶんのなかにうまくうまく統合でき
ていなかった。」とあります。