みみずく先生 6

みみずく先生が「わたしが求めてやまなかった江戸文人と洋学者の伝統」と記している
のは、「風狂 虎の巻」にあります「最後の江戸文人の面影 平井呈一先生を偲ぶ」
においてであります。
 この文章の書き出しは、次のようになります。
「必要な時期に必要な人に出会うということーそれがどんなに稀有なことであり、また
宿命的なことであるか。生存の道の半ばを、とっくに過ぎる年になって、いまさらの
ように思うのは、この感慨である。」
 1972年に「ほるぷ新聞」に寄稿されたものですから、この時みみずく先生は53歳で
しょうか。
 必要な時期とはいつで、必要な人とは誰かであります。
「わたしにとって、平井呈一先生は、このような出会いを与えて下さった方である。昭和
二十二年、まだ旧制高校にいた頃のことだから、わたしは十七、八だったはずだ。」
 これまたみみずく先生らしくもないわかりよい文章で、みみずく流の「先生とわたし」
の話を聞くことができそうな感じであります。
「当時は誰からも怪訝な顔をされたゴシック・ロマンスにたいするわたしの偏愛や、
ロマン主義と世紀末芸術と象徴主義とを一緒くたに愛してゆく態度を、励ました下さった
のも先生で、こういう偏愛こういう態度は、その後、大学の英文科に学ぶようになっても
決して授業のなかからはくみとることができなかったものだ。奇矯とののしられながら、
自分なりにこつこつとやってきたが、誇りばかりは強くても実力はまだ身につかず、孤立
無援の有様だったあの青年期に、先生のような冴え冴えとした感性をもつ先達に、蔭なが
ら鼓舞して頂くことがなかったなら、英学の道を歩きとおす気力も、いつか失っていた
かも知れない。」
 みみずく先生の関心領域は、当時のアカデミズムでは異端でありまして、すくなくとも
この路線では、当時の過去の帝国大学では受け入れられることがなかったでありましょ
う。
「十九歳の年に、もうかなり親しくなった先生に『弟子にして下さいますか』と切り出し
たとき、例の身ぶりを加えながら、『いや弟子だの先生だの、ていうんじゃなく、その、
同臭の徒としてね、いきましょうや』と微笑されたお顔は、なんとも美しかった。学会の
ボスに取り入って得をしようとする世すぎの方向だけはついに無縁のわたしだったが、
それも、もともと、青年期の閾のところで、先生のような在野のホンモノに私淑する光栄
に浴したためであったにちがいない。』