新本屋でバーゲン本 3

 昨日に続いて「学問への情熱」から直良信夫さんが、どのようにして学究の徒になれ
たかのところを見てみます。
「私は徳永先生の徒弟のような存在であった。そしてみずからも徒弟奉公しているのだ
 徒弟となったからには、その人の身の回りの世話をするのも仕事のうちと考えておか
なければならない。使い走りも重要な仕事である。そう思っていた私は、喜んで先生の
個人的な使い走りもしたし、また先生と旅に出たときなどは先生の下着の洗濯なども
ひきうけた。
 私だけでなく、昔の学問の師弟関係は、そのようにして師につかえるのがあたりまえ
のこととされていた。」
 昔の師弟関係はとありますが、いまでもこれに近いものが残っているところがあるの
でありましょう。師匠といえば親も同然であります。
この徳永先生は、お人柄もとってもよかったとあります。
「剽軽な先生で、よく軽妙な洒落をとばしては皆を笑わせることが多かったので、目下
の者も『おやじ』の愛称で親しんでいた。先生にはまた『三博』という通り名があった。
若いころ病弱だった先生は能を健康法として肉体を整えられたので、この芸はすでに
名人の域に入っていた。先生は理学博士であり、工学博士でもある。これに能楽(農学)
の博士級であることを加えて『三博』とみずから号されていたのである。
 私はその『三博』先生の徒弟であることをひそかに誇りに思っていた。そしてひたすら
につかえた。」
 直良さんの徳永先生への徒弟時代は、1933(昭和8)年から1940(昭和15)年に
かけての7年間ほどであったようです。
「その徳永先生が亡くなられたのは、昭和15年(1940)二月八日の夜であった。先生は
亡くなられる三年前ごろから健康をそこなわれ、学内の階段をのぼられるにも途中で
幾度も休まれていた。が、その後元気になられた様子だったので、私は安心していた。
ところが、亡くなられる少し前、私が勤めていた獣類化石研究室に顔を出された先生は、
ひどく咳き込んでおられた。眼も熱でうるんでいた。
 先生と私はそこで、小一時間ほど雑談をかわした。そのうち先生が、『どうも風邪を
ひいたらしい』と言われるので、私は帰宅されるようにすすめた。それがこの世で先生
とかわした』最後の言葉となった。先生はその日から寝込まれ、そして二月九日朝、
悲報を聞くことになったのである。」
 直良さんの本を手にして、反応したのが「徳永重康」先生との交流でありました。
この先生は、ひょっとしてあの方のお父上かと思って調べてみましたら、その
とおりで、記し始めたのですが、その日が「徳永重康」先生が亡くなった日であった
とは、まさに偶然としてもできすぎなことであります。
 この先生の息子さんは、次のように記しています。
「わたしがハンガリー留学に出発したのは、昭和十四年(1939)の暮れの十二月
二十三日。日本郵船の箱根丸で神戸港を発った。・・
 当時の欧州航路の客船は横浜から出発したが、たいていの旅客は神戸で乗船する習慣
だった。神戸を出てからも、瀬戸内海で一夜をすごし、次の日は関門海峡にもう一晩
碇泊するという気長な日程なので、その頃まだ遠い異国だったヨーロッパに旅立つ船客
の中には、下関まで家族や友達を呼びよせて送別の宴を張る人も多かった。私の場合も、
九州の鉱山調査にでかける父親が見送りがてら神戸から同船したので、下関で一旦船か
らおりてホテルに泊まり、翌日海峡を出港する箱根丸の甲板から、遠ざかって行く見送り
人の艀に手を振って別れを告げた。」
 この親子にとって、下関での別れが永遠のものとなってしまったのでした。再び息子
さんの文章からです。
「下関まで送ってくれた父は、私がブダペストへ着いたその日に急死した。」
 このようなことがあるのだなというくらい劇的な話でありますが、この挿話は息子
さんである徳永康元さんの著書「ブダペスト回想」恒文社刊にあったものです。
まさか直良信夫さんの本から、ブダペスト回想に話題がつながるとは思ってもみなかっ
たことです。

ブダペスト回想

ブダペスト回想