新本屋でバーゲン本 2

 昨日に引き続き直良信夫さんの「学問への情熱」から話題をいただきです。
 ほとんど独学に近い直良さんが大学で講座を担当するだけでも、画期的なことのよう
に思えます。この本には、「アカデミズムに排除されつづけながら、それに対して吼え
かみつきぬいて三十四歳の若さで死んでしまった森本六爾。彼の死はやはり、悲しい。」
とあります。志を同じくしていても、かなわなかった森本さんと、直良さんの差は大き
いことです。
「洋行すればはくがつく。確かに森本や私のような野の人間には、それはだいじなこと
だったかもしれない。が、あせっては元も子もない。死んでしまっては何にもならない。
私はこう思わないわけにはいかなかった。
 結局、森本はフランスに渡り、そして、一、二年後挫折して帰ってきた。はくがつい
たとも思えない。彼はただ、からだの具合をよけいに悪くし、さらに帰国後、無理をし
て論文の執筆をつづけ、とうとうとりかえしのつかないことになった。」
 森本さんは、洋行してはくをつけようとしたわけですが、幸運なことに直良さんは、
大学の先生に見込まれて、その先生にはくをつけてもらうことになったわけです。
「人の運命というものは、不思議なものである。系統立った勉強をやりたい、今からで
も決して遅くないはずだ。こう思いたって上京した私は、まもなく早稲田大学に、
古生物学の徳永重康教授を訪ねた。・・徳永先生の名前を知ったのは、姫路に移る六年
ほど前、東京の早稲田工手学校に一時、籍をおいていたときであった。たまたま先生は
その学校の校長を兼務されていたのである。そのときはお顔を拝見したこともなかった。
が、明石に住み、象化石を研究するようになってから、私は手紙で教えをうけるように
なっていた。・・先生からはそのつど懇切な返事がとどけられた。
 上京の挨拶にやってきた私を見ると、先生は『ひとつ、君に引きうけてもらいたいこ
とがある』といわれた。瀬戸内海で発見された獣骨化石の標本の整理である。・・私は
即座に引きうけた。標本整理でも古生物学の勉強になる。月給はもらえないが、その
かわり先生から古生物学や地史学の教えも受けることもできる、と思ったのだ。」
 まったく先のあてがなく、上京してあいさつにいったところで、直良さんは、運命の
出会いを果たすわけです。この徳永先生のとの出会いがなければ、どうなっていたのか。