小沢信男著作 240

「はしごを外す」とか「はしごが外れる」ということばがありますが、小沢さんが新日本
文学会の「事務局長」になったのは、「はずれたはしごにのぼる」というようなものです。
 田所泉さんの「覚書」からです。
「だが小沢・小野のコンビは、よくこの困難を乗り越えた。小沢はほかに仕事をもちなが
らほとんど事務局に常勤し、多くの会員に直接会い、まめに手紙を書いた。会館を訪れた
花田に『何か書いているか』と聞かれて『(会員などからの借金の)借用書』をと答えた
という話が伝わっている。小野には、フリーの編集者だった久保覚が緊密に協力し、誌面
はかえって多彩になった。七〇年九月号の特集『創造的課題としての朝鮮』は、いわば
その出発点となるもので、アクチュアルな主題を芸術の視点から多角的にとらえていた。」
 田所さんは、小沢さんは「ほかに仕事をもちながらほとんど事務局に常勤」と記して
いますが、ほかの仕事というのは、「タウン誌 うえの」の編集等であると思われます。
 この事務局長というのは、「なかば専従が求められて、世間が七、八万円の月給のとき
二、三万円」の報酬で「半分以上ボランティアだ」と、小沢さんは解散提起のなかでいっ
ています。半分以上ボランティアである事務局長職を、小沢さんは、本当のボランティア
にしてしまいました。
「それを私のときに、それしきで縛られるのはいやだから、通勤定期券を買ってもらう
だけにした。以来、事務局長はタダになっちゃったんです。」
 最近では考えることができないことですが、大の大人がボランティアで二年間も全国
組織の団体の事務局長を常勤で勤めたのであります。
「なんでやってこれたのか。廉恥の精神だね。それでできたんだ、借金をかかえながら。
だから事務局の諸君も、世間の半額でも三分の一でも、運動の精神を共有してくれたの
よ。それはもう、いろんなことはあって綺麗事ばかりではございません。
けれど、肝心要はそれでやってきたんだよ。」
 このボランティア事務局長は、小沢さんのあと約20年間にわたり代々と引き継がれた
のでありますが、九十年代にはいってついに種切れになったとありました。