小沢信男著作 215

 小沢信男さんは、深沢七郎山下清について「その後の遁走ぶりなども似たところが
あるようで」と記しているのですが、山下清については、ドラマなどでとりあげられて
いるせいもあった、本当のところはわからないまでも放浪のイメージは定着しています
が、深沢七郎の「遁走」は、今は、ほとんど知られていないのではないでしょうか。
 小沢さんの「深沢七郎論」(「書生と車夫の東京」所収)には、次のようにあります。
「昭和35(1960)年。彼は三十六枚の短編『風流夢譚』を書く。これが『中央公論
十二月号に発表されるや、社会を震撼させる問題作となってしまったのだ。・・・
 当の深沢七郎は、すでに身を隠していた。十二月号がでてまもなく、右翼が狙って
いるという情報を聞いたとたんに消えたのだ。その身のこなしの素早いのが身上の人
だった。・・・・・
 深沢七郎は、都内某所に、刑事二人と犬五匹に護られてひそんでいたが、その<幽閉>
に耐えがたく、旅に出た。京都、大阪、尾道、広島、北海道・・・。刑事二人が護衛に
はりついていたが、苫小牧でやっと一人きりになれた。それからは”渡り鳥のジミー”
だ。頭のはげた五十ちかい身に、流浪の暮らしがまた戻ってきたのだ。」
 「亡命」の日々は、なんと四年半ほども続いたのだそうです。当方が中学生の頃は、
札幌にもいたとのことですが、そのこともまったく承知しておりませんでした。
 この三十ページほどの「深沢七郎論」を、小沢さんは、どのように書き直そうとして
いたのか興味のあるところですが、「十三歳年長の不可解度の濃い大先輩」であります
からして、新たな切り口を見いだすのが困難であったのでしょう。
 山下清さんについては、先日に引用したあとがきにありましたとおりで「私より五歳
上なだけの兄貴分であった。ほぼ同世代を生きてきた感慨は、追いかけるほどに深まっ
て、どうやら私自身も補助線の一本になった。いや、それにしてはでしゃばりすぎて、
なかば自分史にもなってしまったような気が、しないでもない。」であります。
 自分史になったとまでいっています。山下清のことを書いているうちに、自分のこと
を書いていたで、山下清は同時代人どころか、山下清はわたしだといっているようにも
思えます。