小沢信男著作 212

 小沢信男さんの作品の中で「裸の大将一代記」は、やはり画期的なものですね。
 テーマが東京ものでも、文学者でも、文学運動についてのものでもないこと、時間を
かけた、書き下ろしの長編評伝であったことなどがあげられます。
 長いこと小沢信男さんの読者(理解しているかどうかは疑問ですね)をしてい
るのですが、この作品がでたときには、小沢さんと「山下清」との組み合わせに驚いた
ものです。
 この作品のあとがきには、次のようにありました。(あとがきの日付は1999年12月
14日とあります。)
「ここ十数年、私は人物評伝のたぐいをいくつか、短編に綴ってきた。そのなかに
深沢七郎論』があり、この旧作を手直しするべく、山下清という補助線を加えること
を思いついた。これが発端だった。着手すると、補助線がみるみるふくらんでくるでは
ないか。結果は、山下清を描きあげるための補助線に深沢七郎がなってしまった。
 じつのところ深沢七郎は、十三歳年長の不可解度の濃い大先輩で、くらべて山下清は、
私より五歳上なだけの兄貴分であった。ほぼ同世代を生きてきた感慨は、追いかける
ほどに深まって、どうやら私自身も補助線の一本になった。いや、それにしてはでしゃ
ばりすぎて、なかば自分史にもなってしまったような気が、しないでもない。」

 小沢さんの「深沢七郎」さんについての文章は、「若きマチュウの悩み」と「書生と
車夫の東京」にありますが論というのは、後者にあるものですね。
「考えてみると、深沢七郎という人は、重ね重ね衝撃の人であった。『楢山節考』この
かた、しばしば世人の意表にでて話題をふりまいた。その主なるものを年表風に列記
すれば、
 昭和三十一年十月、『楢山節考』が『中央公論』第一回新人賞に入選。時に四十二歳。
日劇ミュージックホールのギター弾きだった。その作品のはらむ半近代性が広く読書人
に衝撃を与える一方、その奇抜な言行から<文壇の山下清>というふうなゴシップを
生んだ。」
 深沢七郎がデビューした時は、当方は小学校に入るかはいらないころですから、
まったく知らずです。<文壇の山下清>というふうにいわれていたというのは、これで
はじめて眼にしたものです。