小沢信男著作 210

 多田道太郎さんの選評を転記しながら、なるほどなと思いながら読んでおりました。
この選評を見るのは、10年ぶりのことでありますし、そのときはさらっとしか見ており
ませんでした。
 多田さんが小沢さんの本文から引用している「乞食絵師山下清の生涯とその作品を
思えば、だれもが心洗われる安らぎをおぼえるのでありました。どっとはらい。」と
いうくだりがどこにあるのだろうかと、文庫版をぱらぱらとめくっておりましたが、
まだ見つけるにはいたっておりません。「はてな」では、「どっとはらい」という言葉
が、キーワード登録されていまして、これをクリックしましたら、青森などの東北で
つかわれる「おしまいとか、めでたしめでたし」という意味とありました。
 山下清さんは、今考えるときままに取材旅行をしていたのですが、当時の世間では、
それを放浪と称したのでありますね。時代において進行していることを的確にとらえる
ことの難しさであります。いまでありましたら「旅する巨人」といいたくなります。
 選考委員の四人目である鶴見俊輔さんの選評です。
「同時代の人物を書くのに、百年の眼をもってするという印象を、『裸の大将一代記』
はあたえる。いや百年をこえて、数百年の眼をもって昭和の日本を見ている。
山下清逝いて二十八年。平成のこんにちもなお、山下清作品展は日本の各地を巡回し、
少年少女たちに感動をあたえている』
 この事実は、山下清のものの見方が、戦中の日本人のものの見方のせまさだけでなく、
戦後の経済成長でかえって深まったせちがらさに風穴をつくる力を持ち得ているという
ことではないか。
 同時代史の中に山下清をおくとき、そのそばに著者は、自分の姿を小さく書きこんで
おり、戦中戦後に空腹をかかえて生きた自分にくらべて、世わたりのつたなさを方法に
かえて食べものを得る道にことかかなかった主人公へのつきせぬうらみをのべる。
著者自身だけでなく深沢七郎小林秀雄などのわき役が山下清の横におかれて特色を
見せる。」
 「世わたりのつたなさを方法にかえて食べものを得る道にことかかなかった主人公」
でありますよ。「つたなさを方法にかえて」という言い表し方は、凄いとしかいいよう
がなしです。