小沢信男著作 159

 松倉米吉さんの作品については、EDI叢書に収録されているもので、目にすることが
できました。米吉さんの作品を世に知らしめることを使命とした高田浪吉さんは、その
後、専門歌人となるのですが、残念なことに、小沢さんが「本所 あの道 この道」に
引用している作品のほか、作品を目にすることはできておりません。
 下駄塗装を家業とする家に生まれ、家業に従事していた浪吉さんの生活が激変するの
は、「関東大震災」で罹災したことによります。
 小沢さんは、次のように記しています。
 「浪吉は一夜にして母と妹三人を失った。・・・・
この夜隅田川両岸は焔となり、厩橋は鉄橋なのに燃えた。かろうじて命を拾った父と息子
は、たずねたずねて被服廠へゆく、死体のほとんどは男女の判別も不可能だった。
仮の納骨堂がつくられ、四十九日、百ヶ日の法要が営まれる。」
 上に引用したくだりが記されている「本所 あの道 この道」のページには、高田浪吉
さんの著作の書影が掲載されています。そのなかに「島木赤彦の研究」(岩波書店刊)が
ありました。高田浪吉さんは、島木赤彦門下でありますからして、亡父の書架で高田浪吉
さんの名前を見たのは島木赤彦に関連してであったかもしれません。「アララギ」の
島木赤彦追悼号などには、当然のこと高田浪吉さんが寄稿しているのでありました。
 そういえば、亡父の書架には「赤彦全集」(岩波書店刊)もならんでいるのでした。
ここになにか、参考になることはないだろうかと思って、ぱらぱらとのぞいて(「赤彦
全集」のページを開いたのは、ほとんどはじめてのことです。)いましたら、赤彦書簡
に、次の記述です。
 大震災の一週間後ですが、長野から東京にでて、長野へと封書で報告です。
 大正12年九月七日 東京市外代々木山谷316アララギ発行所より信濃下諏訪町高木の
 久保田不二(夫人)あて
「皆無事長野からは一度で乗れた各駅人波澎湃戦争の如し五日大宮にて降車させられ七里
の道を荷を負ひ五日午後東京に入る(途中より自働車ありて助かる発行所無事岡さん二度
目の火事にて遂家を焼かれ全家発行所へ避難画伯無事橋本無事岩波さん全家無事(書店は
勿論焼く)高田はとてもだめと思ひ定め居りしに昨日(六日)午前十時突然シャツ一枚に
て来る驚愕言出ずこれは天佑以上の天佑也川向うは人口の七八分以上は確かに死せる由
高田君の母妹四人は行方不明の由高田は昼より明日の朝まで隅田川の水につかり或いは
岸に居て免る焼死点々たり」
 この時期の書簡で、赤彦は同人の消息をつたえていますが、先日に引用した林達夫さん
の文中にあった「築地藤子」さんについても「生存せり」と記しています。
 震災の直後の高田浪吉さんは、「アララギ発行所」に身を寄せており、赤彦の書簡に
は、「高田は発行所に居候」とあります。