小沢信男著作 113

 河出書房版「東京百景」のあとがきからの引用です。
「犬も歩けば棒に当たるし、人も生きていればさまざまな出会いがあって、その証拠に
こうしてまた本ができました。
1の章の「いろはにほ屁と」「わたしの赤マント」「その白い手を」「抜けて涼しき」
河出書房新社発行の雑誌『文藝』に、この順序で書かしていただきました。
1979年から84年までの六年間に四篇。それから五年すぎて、今日こうして一冊にまと
めてくださるのも、すべて福島紀幸氏のお骨折りです。氏に出会わなかったら、この
乏しき一篇も私は書いてはいまいと、ひそかに確信が持ててしまうのです。その間に
氏は『文藝』編集員、編集長、出版部門と役職が移り、私は碌碌として変わらないのに、
なにやら便乗しているごとくで、やはり月日はたつものですね。」
 1章は「短編集 私の赤マント」とありまして、その大半は「文藝」に発表したもので
あります。残りの二篇「「帽子が消えた」と「「釣り落とされた魚」は、何に発表した
ものでしたろうか。
「私の赤マント」に関しては発表された時に、朝日新聞文芸時評でとりあげられました。
この作品の紹介するには、この評を引用するのが一番でありましょう。ちなみに評者は
河野多恵子さんで、新聞の掲載は1982年7月20日とメモにあります。
「 小沢信男氏の作品をよむのは私には今度がはじめてなのだが、『私の赤マント』(
文芸)は鋭いモチーフによって今日の現実を巧みにうがった短編である。
 冒頭、週刊誌から牧野次郎へ宛てた、誌上『伝言板』用原稿依頼状が登場する。
それに応じた写真家牧野次郎の掲載された寄稿文が次にあるのだが、この赤マントの
騒ぎは実際にあったことだった。<日中戦争の最中のころ、東京の町々に夜な夜な赤
マントを着た怪人が現れて、女こどもを襲うという事件、いや噂がありました。たぶん
昭和十三、四年。私が小学五、六年生の時分です。><そこで、当時の小学生諸君に
お願い。赤マントに関する記憶を何なりとお聞かせください。>それに対して三人の
読者から寄せられた、それぞれに興味深い文面が置かれる。
 そのあとに、牧野氏の掲載文を見た、小学校の旧友からの電話の話言葉が続く。彼は
ビル会社の管理人兼務の社長で、そういう人物相当の雑談のうちに、作者は戦時下や
戦後の移りかわりをもたくみに織り込む。その電話は、牧野氏に今日の現実を今更なが
ら感じさせ、赤マントへの関心を更新させたものと見える。
 要所要所に絶対的なものをつくり駆使して統制したのが当時であるならば、毒も正論も
創造的見識も相対化してしまう風潮づくりで見えぬ統制がなされているのが今日といえる
かもしれない。牧野氏は、赤マントは一人の男が放った流言蜚語として、三十くらいの
銀行員が逮捕された時の新聞記事を、掲載位置まで覚えている。騒ぎの幕引き用のでっち
あげ犯人だったのか。それとも、あの当時にしてただの個人の意志と言葉の広い影響力を
みごとにかち得た男だったのか。それをしりたい、当人に会いたい気持ちを訴える牧野氏
の『伝言板』用の文章。そしてもう取り合おうとはしない編集部からの辞退の文面で
しめくくられる。男に寄せる牧野氏の真犯人期待が、今日の悲観的現実への抵抗願望に
発していることが鮮烈に伝わってくるのである。」
 30年前には、河野多恵子さんが文芸時評をしていたのが、いまとなっては驚きです。
小沢さんの小説が「文芸時評」で取り上げられるのは、たいへん珍しくて、切り抜いて
スクラップしたのですが、小沢さんが文芸誌に小説を発表したのは、84年が最後にあた
るのではないでしょうか。