小沢信男著作 75

 当方は東京にはまったく縁遠い暮らしをしておりましたので、はじめて東京に
いったのは15歳くらいの時で、中学の修学旅行でした。すでに東京オリンピック
終わっていて、東京の街はずいぶんと、それまでとかわったといわれています。
 当方と同年代の方であっても、東京の町中で住んでいた人の昔話を聞きますと、
都内を路面電車が行き交っていたころのことが話題となりますが、当方は都電と
いう言葉を聞いてもなんらの感慨をもよおすことはありません。
 本日のNHK教育テレビで放送された「細野晴臣」さんの番組を見ていましたら、
都電が走る映像がでてきましたが、もちろん今あるものとは違っています。
 小沢信男さんの「池袋今昔物語」には、次のように都電という言葉がでてきます。
「(池袋の)駅前を離れて、べつにどこに行くあてもない、取得のない街だったと
思う。せいぜい映画館『人生坐』が、十七番の都電通りに面してポツンと飛び離れて
あった、ここが足跡の及ぶ限界だった。名画につられてこんな辺境まで足を運ぶ自分
が奇特に思えた。」
「十七番の都電」と書けば、わかる人にはわかったのでありますよね。検索をすれば
どこからどこへといっていた電車であったのかわかるでしょうが、その時代の雰囲気
はまったく伝わってきません。
 都バスで長い距離をはしっているものの、ほとんどはかっての都電の路線を継承
しているという話を聞いたことがありました。
 今ある都電については、「いまむかし東京逍遥」の「東京逍遥篇」という文章で、
次のように書いています。
「東京にただ一本の都電が、いまもチンチン走っていて、三ノ輪ー早稲田間の荒川線が
それですが、その車中に沿線案内のポスターがあり、題して『東京の散歩路』
 じじつ、この園園は、散歩に好適な場所が多いのです。・・
 わたしは、この沿線を、ほぼくまなく散歩しておりまして。そのどこがアナ場か、
などということは本来ひとに教えたくないのだが、このさい特に申し上げれば、
雑司谷界隈を推奨します。」
 本日、手にした本にも都電荒川線についての文章がありました。
「二十代のはじめの数年間を都電荒川線沿いで過ごした。終点でもあり起点でもある
早稲田に一年、面影橋学習院下のなかほどに二年住みついていたのだが、豊島区内
に留まっていたころは高田馬場や新宿や池袋まで歩いていけたし、散歩の途中に古書店
や喫茶店名画座や玉突場があって若者らしい欲求をみたすことができたのに・・・」
この作者は、都電に毎日でものってみたいということで沿線にすむようになったと
記しています。( 堀江敏幸 「象が踏んでも」の「越すに越されぬ飛鳥山」から)