小沢信男著作 76

「いまむかし東京逍遥」の最後におかれているのは、「ちちははの記」ですが、これは
初出が「思想の科学」、先に「あほうどりの唄」に収録されています。 
 自分の父とか母についての文章を書くというのは、けっこうたいへんなことでありま
して、どのような切り口で書くのか、いろいろと作戦を練る必要がありますね。
小沢さんの「ちちははの記」というのは、小沢さんが「佐多稲子の東京地図」で書いて
いる、次のくだりに呼応するような文章です。
花田清輝の言葉に、前近代を否定的媒介にして近代をのりこえる、という、いわゆる
花田テーゼがあり、これも呪文めいてなんのことか、わかっている自信などないのです
けれども、たとえば、佐多稲子の足跡がそれだ、というふうに思ってみると、奇妙に
納得できる気持ちに、私はなれます。花田さんの書いた佐多稲子小論のなかに、佐多さん
を『夕鶴』の主人公にたとえて、こっちをむいているときは小さな世話女房だが、あっち
をみいて立てば、天井くらい高くて透明に透けて見える、といった形容があったと思い
ますが。花田さんは、現代を切りひらいてゆこうとする道が、けっして前人未踏では
なく、そこを佐多さんが通っていったのを、その後姿を見たのではないでしょうか。」
 佐多稲子さんは1904年生まれでありますからして、1927年生まれの小沢さんにして
みれば親子ほどの年齢差となります。佐多さんのような方であっても、前近代に足をと
られているわけですからして、佐多さんの同世代の人々にとっては、最後まで前近代に
どっぷりというのが普通でありましたでしょう。
 そこで、小沢さんの「ちちははの記」であります。
「 幼いころ、虫封じのまじないに連れていかれた。掌のまん中に毛筆で黒丸のしるしを
つけられ、そこを小刀の先でチョッチョッとつつかれる。くすぐったくて妙な気分だが、
これで疳の虫が切れるというのである。・・
 こういうマジナイ事は、浅草方面が本場のようだ。おとりさんに詣でて熊手を買うの
も、毎年の恒例だった。当時わが家は銀座のはずれで小さな自動車屋をいとなんでいた。
親類の家は京橋のたもとの小さな印刷屋だった。いずれも文明開化に属する事業と思う
のだが、その両家とも、商売繁盛と家内安全をもっぱら”俗間信仰”に頼って、せっせと
浅草へ通っていたわけだ。」 
 昭和の初めの話であります。小さな自動車屋といいますが昭和の初めです。その時に
東京銀座でありますから、自動車屋なんてありましたが、東京、大阪以外であと自動車
屋なんてのは、どこにあったでしょうか。