古本屋のおやぢ 10

 「上林暁全集」月報には、関口良雄さんの「昔日の客」に版画を寄せている山高登さん
(この「昔日の客」の編集も担当したと思われます。)も寄稿しています。タイトルは
「上林先生断章」というものですが、この文章にも関口さんが登場します。
 その前に、上林さんとの出会いについてです。山高登さんが「最初に上林先生の初めて
お目にかかったのは、・・昭和25年のことである。・・当時少年雑誌のかけ出し編集者
だった」とあります。これがどの雑誌のことであるかはわかりませんが、最後は新潮社の
編集者であったとありました。
「『武蔵野』という文庫本一冊は、私にとってバイブルのような存在である。昭和38年
社会思想社教養文庫の一冊として刊行されたもので、いま絶版になっているのは残念
でならない。・・上林文学の大きな魅力の一つが、一途な純情にあることはいうまでも
ないことだが、文筆生活の土台を据えた武蔵野が題材になっていることで、いっそうその
輝きを増しているように思えるのである。
 この本が私一人の思い出を充してくれるためだけで貴いのではない、ここには昭和十年
代の文士のつましい、清らかな生活の一端が流れていて興味があるのである。」
 文士といってもいろいろといるのでしょうから、素封家の息子で生活の心配がなかった
という方もいるでしょうし、今でいうとバブリーな人もいたのでしょうが、山高さんに
すれば、「つましく、清らか」でなくては文士にあらずという気分でしょう。
 そして関口さんの話題となります。
「大森の山王に古本店を開き、『上林暁文学書目』を自費出版した関口良雄さんとは、
上林先生が二回目の脳出血で倒れられた昭和37年11月に、阿佐ヶ谷の河北病院の控え室
の畳の上で知り合った。関口さんは文章もうまく、俳句には殊に熱を入れていた。上林
先生は病気再発後三、四年過ぎたころから、特にこの短詞型を好まれるようになり、病床
ではいつも俳書を漁り、実作もどんどん増えていった。私は戦争中、名古屋の勤労動員先
で俳句の味を覚え、戦後二十年くらい熱中した。『三人で句集を作ろうか』という上林
先生の提案は、関口さんと私を有頂天にさせた。ことに関口さんはたちまち山王放送局の
特長を発揮して、この計画を方々へ話して歩いた。」
 こうしてできあがった句集が、先日に上林さんの文章で紹介した「群島」になるわけ
です。
「私は、この句集を出してみるたびに、上林先生の病中吟のぬきさしならぬ深さに驚き、
刊行後8年にして故人になってしまった関口さんを思うのである。
 私の好きな上林先生の俳句を二句だけあげておこう。 
  南瓜食ふ男となりて足立たず
  亡き友の遺著また届く師走かな  」
 この文章には、関口さんのことを「山王放送局」とあって、これがまったく意外なこと
に思えました。