今年も山猫忌8

 長谷川四郎さんの命日にちなんでの「山猫忌」でありますが、このように
続けていれば、いつまでも話題に事欠かないようです。(当方にとっては、
楽しいのでありますが、アクセスしてくださる方には、またその話かという
ことになりそうです。そろそろ、話題を転じなくては、とはいうものの、本日は
もうすこし。)
 昨日に書影をかかげた「随筆丹下左膳」でありますが、これの序には、昨日に
引用したところに続いて以下のようにあります。
「ところで、全体の書名である。 仮に巻頭の一篇をとり、『随筆丹下左膳』と
することとした。要するに、なんでもいいのだ。この書物、曲り角でなにが出て
くるかわからないようなものだが、そのいずれも、口べたのおしゃべりという
ところだろう。」
 「口べたのおしゃべり」というのが言いえてみょうであります。
当方は、長谷川四郎さんの講演などを聞いたことがありません。晩年に教育テレビ
にでて、自作について語っているのを見たことがありますが、このときには、
病気のせいでゆっくりと話をしているのかと思うのでした。長谷川四郎さんは、
言葉を口にするよりも、文字にして表現するほうが雄弁であったようです。
66年8月にでた「長谷川四郎作品集」にはさみこみの月報2には、詩人の岩田宏
小笠原豊樹)さんは、次のように記しています。
「 講演旅行のときの、座談会のときの、一緒にストリップを見たときの、
キューバから帰ってきたときの、そのほかいろんなときの長谷川四郎さんの姿が、
私の心にこびりついている。ある日、寒い演壇で、長谷川四郎さんはほとんど
立往生していた。べらべら喋る東京文化人を期待して集まった田舎の人たちは、
きみじかに帰り始めていた。気力をふりしぼるように長谷川四郎さんは言った。
『若い諸君はご存知ないだろうが、私の実の兄はかっての流行作家だった。
隣の部屋に編集者を何人も待たせておいて、原稿を書きまくった。それを傍で
みていたから、流行作家の生活というものをよく知っている。私だって、ああいう
ふうにやってやれないことはない。ただ、私はああいうふうにやりたくないのだ。
 分かってください。』長い長い間があき、話題はとつぜん変わる。
聴衆はますます減っていく。長谷川四郎さんは頭を掻き、にやにや笑い、虚空を
見つめる。それでも聴衆は帰りつづけ、ついさっき聴衆席をカボチャ畑だと思って
喋りまくった私は講師席でひそかに恥じ入り、長谷川四郎さんは寒い演壇の上で
ますます大きく見える体をもてあますようにもじもじするのだった。」
 講演の時の様子が見えるようであります。
 このシリーズの一回目に四郎全集内容見本の写真を掲げましたが、それにあった
サインにそえられた描画を見ていましたら、四郎さんの詩がうかんできましたので、
最後にそれを掲げることにいたしましょう。

 ロデオの歌

 のりまわした
 のりまわした
 野生のウマを
 野生のままに
 のりまわした
 のりまわした
 そしてそれが
 馴れてきたら
 もとの野原に
 放してやった