国語の教科書29

 大正年代に遊学のために東京へと子どもをだすことのできた家というのは、
どのようなことで財をなした家であるのかと思います。
 小生のまわりで聞いたりした話しの多くは、家が貧しくて学校にも満足に
いけなかったというものですので、特にそのように思います。この場合の
学校というのは、今でいうところの小学校にも満足にいけなかったという
話しであり、親にたのんでやっと高等科(いまの中学校のようなもの)へ
いかせてもらったというものです。
 昔の旧制中学にいくというのは、都市部ではともかく地方には自宅から
通えるところに中学校はないのですから、中学校に通うというのは、寄宿
するなど生活費も負担になったのです。旧の商業学校とか工業学校は、まだ
いかせてもらえたのかもしれませんが、それも家業をつぐためというような
条件がついたでしょう。
 まして、女子に教育は不要であるというような考えが支配していたのです
から、大正時代に娘を東京に遊学させるというのは、親がよほど進んだ考えの
持ち主であったのでしょう。娘二人を東京に遊学にだしたら、姉は子どもを
生んだ末に亡くなり、妹は姉の男と一緒になるために出奔したとなると、
田舎では話題にならないはずがありません。そらみたことか、上の学校に
あげるからろくなものにならないと、他人の不幸話しは、お茶のみの時の
絶好の話題です。
 どうも青柳瑞穂さんのところよりも、お千代さんととよさんの実家のほうが
経済的に恵まれていたように思われます。青柳さんの実家について、いづみこ
さんは、次のように書いています。
「 青柳瑞穂は、明治32年(1899)5月29日、山梨県甲府の南方、富士川
べりにある西八代郡高田村印沢で生まれた。四男五女の末子である。生家は
かって質屋を営んでいたことがあり、書画骨董のぎっしりつまった大きな
質倉が、幼いころの瑞穂の遊び場だった。骨董の目利きや掘り出しに関する
彼の独特なセンスは、このとき培われたものだろう。」
 質屋というのは、いまふうにいうと金融業となるのでしょうか。いなかで
金融業をして相当に蓄財をするというと、けっしてきれいなことばかりでは
ないように思います。こうした家に育ったことに反発して左翼活動に
はいった人もいましたが、青柳瑞穂は、そのようなこともなく、ひたすら
親から見れば自堕落な生活となっていたのでしょう。いくつになっても親の
すねかじりで、仕事につくわけでもなく、女にうつつをぬかして、こどもまで
なすのですから、普通でありましたら、これは勘当ものでありますね。