国語の教科書30

 仕事をしなくても生活に困らなくて、好きな本などを買うお金の心配がないと
いうのは、なまけものにとって理想的な環境でありますが、めったにそんな人には
あわないことです。日本でも有数のお金持ちの縁者である政治家の一人は、母親
から信じられないほどの資金援助を受けていたことが明らかになりましたが、
あの兄弟が政治家でもしていなければ、究極の高等遊民の実例であったでしょうか。
 青柳瑞穂の実家は、これとくらべるとスケールは小さくなりますが、それでも
ずいぶんと恵まれていたようです。しかし、いつまでも親がかりにはなっていること
にはならなかったようで、後年は生活困窮の時期があったとあります。
「 とよが悩んでいた理由はいろいろあるが、一番大きなものは経済的問題だった。
図書館養成所の非常勤講師にすぎなかった瑞穂は、四月と十二月にわずかな手当を
もらう他は定収入がなく、翻訳の方も、いわゆる『当たる』ものを選ばなかった
こともあり、結婚後十年くらいはほとんど金にならなかった。」
 いづみこさんは、これに続いて、次のように書いています。
甲府の実家からも毎月送金があったが、それだけではとても生活できず、生活費の
大半は、伊平の山本家からの援助に頼っていた。私が昌子からきいたところによれば、
当主の気太郎は、かけおち同然で瑞穂と一緒になった妹のために、結婚式をあげて
やれなかったからといって、月に200円もの仕送りをしていたという。とよは援助を
受けるたびに気太郎に感謝し、『お兄さまは神様に近い方と思います』などと手記に
書いた。」
月に200円の仕送りというのは破格なのでしょう。やはりおやがかりであった太宰は
月に90円、亀井勝一郎は60円仕送りであったとあります。このあたりで銀行員の
初任給と同じくらいだそうです。
 青柳瑞穂は、このお金をつかって家族の生活をささえるのではなく、骨董買いを
していたのですから、家族はたいへんです。
「阿佐ヶ谷の家は、もともとは瑞穂の前妻とよの両親の持ち家だった。」
 とよさんの両親というのは、ずいぶんとお金持ちであったようで、瑞穂がしば
しばとよさんの在所を訪問したのは、ある意味で下心があったからでありましょう。