大浦みずきさん追悼7

 昨日に引き続き、大浦みずきさんの「阪田寛夫の娘でよかった」(婦人公論 05年
6月)から話題をいただくことにします。
 昨日は、緊急入院した大浦さんの母親が危篤というのに、家族がピースサインで記念
写真をとったと記しましたが、その続きとなります。
「 結局、母は元直すことができたものの、父がその後急速に悪くなってしまい、
数ヶ月後に入院することになりました。優しい顔が別人のようにけわしくなり、人格も
かわっちゃって、哀しかった。生まれてはじめて、父と口論のような言い合いをして
しまいました。お医者様には、『鬱病の人に無理をさせてはいけません』『突拍子も
ないことを言い出しても、うんうんと話をきいてあげてください』と言われていま
した。」
 気質的には阪田寛夫さんは「鬱」といわれていますが、奥様の介護からくる「鬱」は
相当に厳しいものであったようでです。
 そうした「鬱」の日々のなかで、03年10月に「群像」編集部に送られた七編の詩が
遺稿となりました。これは、死後の05年5月号の「群像」に掲載され、講談社文芸
文庫の「うるわしき あさにも」に収録されています。
 大浦さんの文章と重なりあう部分を、遺稿となった詩から引用します。
「 人工呼吸器を使いますかと二度問われたことがある
  三年まえに脳梗塞てんかん発作が同時に起こって
  救急車で入院させた翌朝
  二度目がこんどの不整脈が止まらなくなって三日目の夜
  最初はお願いしますと即答し、
  植物人間になるのはかわいそうだ、と
  亡くなった有名人を思い浮かべてこんどは断った
  妻はその老母が静脈注射のショックで死んだ時 
  長い間子供を五人死なせて堪えてきた人ですから
  どうか静かに死なせてやって下さい
  と、即答して緊急処置をとめた人だ
  そう言いながら私は不覚にも泣いてしまった
  教会の牧師さんがおいでになって次の夜更け、
  二人の娘と私だけが意気をつめて見守っていたら
  とつぜん下の娘が「あ!」と叫んだ
  脈数のメーターが180から下がりだしたのだ
  翌朝見廻りに来た看護婦さんに
  言葉を失っていた筈の妻がいきなり「おはよう」と言った  
  五月八日の朝だった   」
  
 最後に大浦さんの文章を引用して終えることにします。
「 こうやって振り返ると、私は人生の要所要所で父の影響を大きく受けてきたんだ
なあと改めておもいますね。でも、どうしても真似できないのが、完璧主義です。・・
 父の作品の中で私が一番好きなのは、詩です。おもしろい詩がすごくたくさんある
から、いつか父の詩の朗読をやってみたい。今は夢ですけれど、いつか必ず実現させ
たいです。そのためにはまず、朗読術を学ばなければなりません。
 15歳で親元を離れ、ずっと別々に住んでいたのに、亡くなってからはなんだか、
いつも一緒にいるんです。部屋でビールを飲むのも一緒、音楽を聴くのも一緒。
ヤバイですね。原稿書く時、ダメ出しがきつそうだなあ」
 いつか必ず実現させたいと記していた阪田寛夫さんの詩朗読は、たぶん実現は
しなかったのでしょう。これは、大浦みずきさんの「見果てぬ夢」となりました。
「亡くなってからいつも一緒にいる」といっても、なにも急いであちら側にいくこと
はなかったでしょう。大浦みずきさんもまた「父の娘」であったのでしょうか。