大浦みずきさん追悼4

 大浦みずきさんの「夢*宝塚」には、庄野潤三さんが序文を寄せています。

夢・宝塚

夢・宝塚

ずいぶんと贅沢なことでありますが、宝塚の舞台は実力でも、こちらは親の七光りで
しょうか。
 阪田寛夫さんは「おお宝塚」に収録の「初舞台」という文章で、次のように書いて
います。
「入学試験に合格して娘が新幹線で戻って来た夜、みんなで食事をしていると庄野さん
から電話がかかった。庄野潤三さんは私の小学校・中学校・勤め先、ならびに文学上の
先輩で、かねて私が娘を宝塚へやることに大賛成であった。『娘を宝塚へやると、いち
ばんいいお嫁さんになる』というのがその持論である。娘が入学したことを報告する
と、『そんなら、名前を考えんといかんなあ』と言われた。」
 阪田さんと庄野さんのところは、家族ぐるみのおつきあいと思えるのですが、庄野
さんが書かれた「紙吹雪」という序文には、大浦みずきさんとのことが次のように
書かれています。
「 初対面の日のことを思い出す。なつめちゃんが音楽学校の本科生の夏休みであった。
芸名をつけてもらうからには、一度本人を見てやってくださいと阪田寛夫にいわれて、
会うことになった。その頃、阪田は講談社から出る私の全集の各巻に解説を書いてくれ
ていて、その仕事のために月に一回、新宿の鰻屋で私と会っていた。そこへなつめ
ちゃんと連れたって来ることになった。私の妻が書いた『なつめちゃんメモ』による
と、その日、鰻屋から帰った私に、待ちかねた妻が、どんなふうでしたかと尋ねると、
『物いわなくて、頭をペコンと下げただけで立っていた。細くて、ジーパンをはいて
いて、鉛筆みたいな子だったといわれました。』という。・・・
 初舞台は妻も一緒に宝塚まで観に行った。『虞美人』では舞台の上をあっちへ走り
こっちへ走りする青服の兵士の一人であったなつめちゃんが、ゆたかな天分にみがきを
かけて、努力精進を重ねて花組のトップになったのだから偉い。」
 親友の娘さんで、生まれたときから良くしっているはずですが、庄野さんはなつめ
さんとは、名前をつけるときに会ったのが初対面とは思いませんでした。