シベリア抑留6

 本日の新聞を見ましたら、シベリア抑留者への補償金の支払のための法案を
提出するとありました。昨年には「民主党」が軸となって法案の成立を目指した
のですが、この時は廃案となったものとあります。今回は、政権交代を受けての
ことで、長年の夢がかなうのでしょうか。

「 それからまもなく日本は無条件降伏し、私たちはソ連軍によって武装解除された
のち、千五百名単位の作業大隊に再編成されて、バイカル湖の西方にひろがる
イルクーツク州へおくられた。・・・・
 私たちを引率してきたロシア人の将校は、その石を作業大隊に伝えようとして、
やきもきしていた。作業大隊には、何度問い合わせてもロシア語のわかる通訳が
ひとりもいなかったのである。それではドイツ語のわかるものはいないのかという
ことになった。大きな声で問いが繰り返されたが、誰ひとり進み出る者はなかった。
四度目か五度目の問いに、私がためらいがながらでてゆくと、ロシア人の将校は
ホッとした表情を浮かべて、『すべての兵隊たちに、ただちに森のなかへ入って、
できるだけ多くの材木(薪)を集めてくるように言え』と言った。・・・
 それ以来、ロシア人の将校や警戒兵たちは、私のことを、通訳という意味の
ドルメッチャ−というドイツ語で呼ぶようになり、私は彼らとの接触を通じて、
すこしずつ片言のロシア語を覚えていった。」
 引用したのは、「動員前後」という高杉一郎さんの文章ですが、これは田畑書店
ザメンホフの家族たちに収められています。

 高杉一郎さんの追悼文集に「若き日の高杉一郎」の著者である太田哲男さんが
次のように書いています。
「 私が高杉先生にはじめてお目にかかったのは、2000年9月、東京神宮前の
お宅に訪ねたときだった。私が編集を担当した『石原吉郎評論集 海をながれる河』
を高杉先生にお送りしたことがきっかけであった。実のところ、わたしはおそるおそる
お宅を訪問した。なぜかというと、この評論集にいれた私の解説では、私は同じ抑留
文学の書き手として石原の方に共感を寄せて書いていて、先生のお気に召さない
だろうと思っていたからである。・・・
 実は私には先生の『ザメンホフの家族たち』を再編集して出版したいという目論見
があって、勇気を出してお宅を訪ねたのだった。・・
 先生のお宅を何回目かに訪問したとき、私が考えた再編集版の構想をお話した。
先生も興味を示されたように見えたのだったが、その次の訪問の際には、この話は
中止にしようとおっしゃった。
 私は、先生の判断のされ方の慎重さ、ご自分の文章に対するきびしさを感じた。
その慎重さ、きびしさに圧倒されて、私は再編集版の件はさっぱりとあきらめ、
ひたすら改造社時代の話に耳を傾けようと心に誓った。」
 
 太田哲男さんが編集した高杉一郎さんの著書が刊行されました。これは2000年に
企画された「ザメンホフの家族たち」の再編集ものではないようで、引用した「動員
前後」という文章は収録されてはいません。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07498.html

あたたかい人

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