疎開小説8

 疎開小説という言葉は久世光彦さんの文章にあったものですが、これにふさわしい
小説というのは、意外にすくないのかもしれません。「只今様」からいただいた
コメントには、「学童疎開のことについての小説は、小林信彦氏のもの以外殆ど見当たら
ないというのは、国民学校四年生児として集団疎開した小生にとってはとてもよく判る
ような気がします。それは、朝(あした)には虐められる児であり、夕(ゆうべ)には
加害する側にいるというあの日々を思い出すからです。」と記していただきました。
 高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」にも縁故疎開のことが取り上げてありました。

ガラスのうさぎ (フォア文庫)

ガラスのうさぎ (フォア文庫)

ネットで、この作品について検索をして見ていましたら、「疎開の途中、駅で米軍機の
機銃掃射を受け」とありましたが、二宮町とありましたので、その土地への連想から、
思わず山川方夫さんの「夏の葬列」のことを思い浮かべました。近くにあった集英社
文庫「夏の葬列」を開いてみました。
夏の葬列 (集英社文庫)

夏の葬列 (集英社文庫)

 いままでまったく意識をしていなかったのですが、この文庫にある略年譜には、次の
ようにありました。
「昭和19(1944)年 二学期から勤労動員が開始され、授業はなくなる。健康上の
理由で動員を避け、休学手続きをとり、祖父、父母、姉妹とともに前年12月に建てた
神奈川県二宮の新居に疎開。」
 表題作となる「夏の葬列」の書き出しは、次のようになっておりました。
「海岸の小さな町の駅に下りて、彼はしばらははものめずらしげにあたりを眺めていた。
・・・・はだしのまま、砂利の多いこの道を駈けて通学させられた小学生の頃の自分を、
急になまなましく彼は思いだした。あれは戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童と
して、この町にまる三ヶ月ほど済んでいたのだ。・・・・
 この海岸の町の小学校(当時は国民学校といったが)では、東京から来た子どもは、
彼とヒロ子さんの二人きりだった。二年上級の五年生で、勉強もよくできた大柄な
ヒロ子さんは、いつも彼をかばってくれ、弱虫の彼をはなれなかった。」
 この主人公とヒロ子さんの二人は、艦載機の機銃掃射を受けるのですが、二宮では
艦載機の攻撃というのはどのくらいの回数であったのでしょう。山川方夫さんは
昭和5年生まれでありますから、学童疎開とはことなりますが、戦争末期の二宮 機銃
掃射のところが、奇妙に「ガラスのうさぎ」と照応することです。