田中克彦さんには、「ことばの自由をもとめて」(福武文庫)という本があります。
この本は、もともと「法廷にたつ言語」というタイトルで恒文社からでたものですが、
その後、福武文庫にはいる時に一部見直しとなったのにあわせタイトルがかわり、
現在はもとの「法廷にたつ言語」となって流通しています。
- 作者: 田中克彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2002/09/18
- メディア: 文庫
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
この本の中心には、「75年8月26日 小倉在住の朝鮮人牧師 チオエ・チャンホア
氏は、あるきっかけで自分の名が放送されたとき、NHK北九州放送局が、これをサイ・
ショウカと読んだことに抗議した。事前に、報道関係者に対して、自分の名はサイでは
なくチオエだと注意したにもかかわらず、同放送局が、それを故意にサイと読んだために
自分の『人格権』が蹂躙されたものと認識した。」
いまからほんの30年前のNHKは、金日成のことは「きん にっせい」と読んでい
て、なんら不思議に思っていなかったのです。これが、チオエさんのこの裁判をきっかけ
として、NHKの放送では名前の呼び方がかわったのでありました。この時のことを
書いたのが「法廷にたつ言語」という文章です。
これはこれとして、小生はこの本の最後におかれている「『小さなことば』への旅」
という文章が好きであります。
書き出しは、次のとおりです。
「 他言語の不幸は、神が人間にくだした罰ならば、異族のことばを学ぶのは、その
罰の結果である。こうした西洋の伝承に従わなくとも、外国語を学ぶなどという愚かしい
業は、できることならやらずにすませたい。しかし、やむをえぬ必要悪として、何か
ひとつだけ選ぶとすれば、最も効率のいい英語とさだめ、それ以外の弱小言語の延命を
計ろうなどという企ては、国家や人類の統一という大義に逆行する、ゆゆしい分裂策動
ではないか。・・・
それにもかかわらず、独立した地域が新しい国家語を要求し、他方では、既存の小
言語も大言語の抵抗装置をいっそう強化しながら維持されるという事態が生ずるのは
なぜだろうか。・・
わたしの研究対象であるモンゴル語も、このような小言語の一つであり、・・
モンゴル語を母語とするものは、人民共和国で150万、内蒙古で250万、その他
諸方言を加えて500万に近い。ヨーロッパに同様の類例を求めると、フィンランド語
がこれにあたる。」
田中さんはモンゴル語の研究のために留学したボンから、フィンランドにわたり研究を
続けることになるのです。
「さて、旅の最後のフィンランドへの移住にあたって、もっとも不安だったのは住居の
問題である。ヘルシンキ大学の知人、在独フィンランド大使館ともに、みな誠意をもって
情報を提供してくれたけれども、実際に部屋をみつけ、家主と契約を結び、家具、食器に
至るまで、あらゆる身辺の面倒をみてくれたのは、何と『フィンランド・モンゴル協会』
であった。フィンランド語がまだ自由でない私でも、ボンからヘルシンキへたびたび
電話をかけて、気軽に連絡がとれたのは、ひとえにモンゴル語のおかげだったのである。
・・この旅の始発から終点まで、モンゴル語という小さなことばに助けられ、モンゴル
研究者だというだけで、私は予想もしない好意と援助を受けることができた。ことばは
小さければ小さいほど心が通じる。小さなことばを身につけるため、人はたしかに
大きな犠牲を強いられる。人はその小さな民族と、運命の一部をわかつことになるので
ある。」
こういう文章を読むと、小さなことばを大事にしなくてはいけないと、つくづくと
感じるのでありました。