「父の娘」として5

 矢川澄子さんが亡くなって半年足らずで刊行された「ユリイカ」臨時増刊号の
矢川澄子・不滅の少女」は、ずいぶんと前から企画されていたものとしか思えない
充実した内容となっています。この特集のために準備された対談などもあるのですが、
そのまえから集められていた文章で、初めて目にするものがいろいろとあるのでした。
 矢川澄子さんは、矢川さんを慕う若い方々との共同生活を楽しんでいらして、そう
した人たちとの暮らしが、この特集を準備させていたのかもしれません。
本当に興味深い文章や対談がいっぱいあって、「矢川澄子ファン必携」ともいうべき
ものですが、同じ大学で学んだ詩人多田智満子さんへのインタビューから引用をしま
しょう。インタビュー当時、多田さんは神戸大学病院に入院中であったとあります。
多田さんと矢川さんは1930年と同年のお生まれです。お二人は、旧制の女学校を
卒業して東京女子大に入学して出会う事になります。(当時の帝国大学は、女性の
入学を認めるところがほとんどなかった。)
矢川さんの年譜には、次のようにあります。
「 48年4月 東京女子大外国語科(のちに英文科と改称)に入学、同級で同じく
文藝研究会に出入りする多田智満子と知り合い、荻窪西田町の多田邸をたびたび訪問
する。彼女を通じてヴァレリーの『テスト氏』をする。<このひとだけには敵わない、
というのが十代の少女の率直な第一印象だった。>」
「 02年4月16日 長崎の武井宏・敏子夫妻の車で、市内にある父の墓を訪れる。
 帰途、神戸に多田智満子を見舞う。」
「 02年5月29日 黒姫の自宅で自死しているのが宅配便の配達者によって発見
される。」  

 多田さんはインタビューを受けたのは02年6月30日で、その翌年1月に亡く
なっておられます。
「最後に会ったのは、今年の春に矢川さんが長崎旅行の帰りに神戸まで見舞いにきて
くれたとき。病人の家に泊まるのもなんだからホテルを紹介して頂戴と電話がかかって
きて、・・・それならうちにとまってくださいと。
 ちょうど退院して体調の良い時期でしたから、・・・ハーブ園の斜面をずーっと
ぶらぶら歩いて、まるで楽園逍遥といったところ。とても気持ちのいい日で、楽しく
二人でと、わたしはそう思っていました。楽しかったと。そしたら、その後きた手紙が
調子がおかしかったのです。
 4月28日付けのその手紙は、常に泰然自若しているあなたが、病気になってどうして
いるのかと会いにいったら、死ぬ時節には死ぬがよろしく候などと穏やかに受容して
鷹揚に構えている、あなたはいつもそうで、わたしはずっとあてられっぱなしだったと
いう内容でした。
 これはちょっとやりきれないでしょう。・・
 ただ、その手紙には、死を匂わせるようなものは何もない。その後、かなり短い
間に急激に、精神的に落ち込んだのか、本当にわたしは、あの人はさみしかったんだと
思います。それ以上に、年老いて『少女』でありつづけることがつらくなったのかも
しれません。」