「父の娘」として6

 矢川澄子さんと多田智満子さんの交流は18歳から矢川さんが亡くなった時まで、
54年にも及びました。大学に入って最初のであいから、多田さんの病床を見舞った
時まで、時によって交わりの濃淡はあったのでしょうが、その世代のもっとも優秀な
女性たちの関わりには、たいへん興味を感じるものです。
 この二人の女性の交わりを、どのように言い表せばいいのか、なかなか適当な言葉
が見つからないことです。
 矢川澄子さんは、多田さんに送った最後の手紙で「わたしはずっと(多田さんに)
あてられっぱなしだった。」と書いていたとのことです。これについての多田さんの
コメントは次のようなものです。
「 うらやましがる人いうのはいるものです。わたしは誰に対してもうらやましく
なったりはしない。それは優劣の問題ではなくて、精神的態度の問題。
わたしは子供の頃から人をうらやましいと思ったことがない。
したがって、ねたましい、妬けてしかたがないという状態になったことがないん
です。だから彼女もわたしのことを理解しがたい人間だと思っていたでしょうし、
私も、なぜこれほどもつれちゃう人なのかと、彼女の事を思っていました。」
 多田さんが実現した普通の人(?)と結婚して、子供を育てながら、詩を書き
続けるという人生は、ある意味で矢川さんの理想としたものでしょうが、どうしても
そのように生きることができなかったのでしょう。
 多田さんは、「人の心の微妙な綾に疎いところがあるから、うちでもこどもたちが
わたしのことを『火星人』って言うんです。『火星人だから人間の心が分からない』と。」
とこのようにいっています。多田さんが幸せなことは、家族のなかで火星人として
生きる事を認めてもらっていたことでしょう。
そして矢川さんには、認めてくれる家族がなかった。
「 わたしは矢川さんの書くものを、自意識過剰だなあと思って読んでいました。
あれだけの仕事をして、いわは功なり名遂げていながら、コンプレックスのもつれ、
劣等感と優越感のもつれみたいなもの、『自分は貧しいんだ』という意識を、なぜ
もちつづけなければいけなかったのか。・・・」
 この最後のくだりは、神谷美恵子さんがいったと「自虐趣味」につながるもので
ありましょう。
 矢川さんは、神谷さんには70年代に一度だけあっただけと書いていますが、
多田さんは、神戸時代の神谷さんの勉強会に参加をしていたのではなかったか。
矢川さんも、早くに東京を離れて神戸で暮らす事ができていれば、違った文化の
なかに身を置く事ができたかもしれなかったのにと、すこし残念に思うことです。