- 作者: 小島英俊
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/09
- メディア: 新書
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商社マンであった人の著作です。
小生の興味は、その昔に欧州へむかった人々は、どのようなルートで渡ったかと
いうところにあります。このブログでも「貨客船の旅」ということで、堀田善衛や
須賀敦子さんがヨーロッパに向かったときの記録からメモをはりつけたことがあり
ました。このお二人はどちらも欧州航路ということで、インド洋からスエズ運河を
通って地中海にはいっていました。
もちろん、この二人が欧州に渡った時代には、欧州へはシベリア鉄道や飛行機と
いうことも可能でありましたが、それぞれの事情で欧州航路を選んだものであり
ました。
この「文豪たちの大陸横断鉄道」には、次のようにあります。
「 一般旅行者の近隣諸国への海外旅行は随分と早く、日露戦争直後の明治末期から
始まっていた。その行く先は満州旅行から始まり、朝鮮、中国にも広がっていた。
すなわち当時は流行語にもなった『東亜旅行圏』が主体であった。・・
さて東亜旅行が盛んになると、その旅行圏を通りながら陸路で『洋行』する手段
も出現した。シベリア鉄道経由の『欧亜連絡ルート』である。1910年から
欧亜連絡切符も売り出されて、その第一歩を切ったのである。だが、欧州航路で
いくよりもずっと速く便利であったのに、実際このルートを使った旅行者は期待に
反して甚だ少なかった。」
この本にとりあげられている文豪とは、漱石、荷風、里見とん、林芙美子、野上
弥生子、実篤などでありますが、「シベリア鉄道経由の欧亜連絡ルート」ができて
からも、航路での欧州行きが多かったようです。
一般の旅行者の書いた物に、次のようにあるとのことです。
「 インド洋より費用も安く日数にしては問題にならぬほど相違あるため、誰しも
シベリア経由を望むも『北満の危険』と『シベリアの心配』とが原因して日本人
旅客は過去半ヶ月一人もなく・・」34年7月の文章です。
小生が学生のころには、五木寛之の小説「さらばモスクワ愚連隊」などが発表
されて、シベリア経由でヨーロッパにまわるというのは、貧乏旅行の定番となって
いたように思いますが、60年代後半からは、欧州航路の貨客船も少なくなったと
いう事情もあるでしょう。
調べるとわかるとは思うのでありますが、第二次大戦後にヨーロッパにわたった
加藤周一、遠藤周作、加賀乙彦、辻邦生・・といった人々は例外なしで、欧州航路で
いったのでしょうか。