武井武雄さんは、「気侭画帳」という本を刊行しています。現在はちくま学芸
文庫に収録されていて、容易に手にすることができるはずですが、ちょっとかわった
成り立ちのものであるようで、この本のまえがきで、武井さんは次のように書いて
います。
「 気侭画帳は決してひとに見せたり、後日上梓などという意図をもって描いたもの
ではない。その名の示す通り気が向けばらくがきのつもりで描き込み、気が向か
ないと何日でもほうり出した侭になっている。日付は書いておくが絵日記のような
性格のものでもない。
ある時偶然、時代ものの和紙の判取帳が手に入ったので、捨てておくのも勿体
ないと思って毛筆でらくがきする気になったわけである。・・・
自分は戦時中応召も徴用も来なかったので、終日家に居て仕事をしている男性
なんてそうザラに居ない処から、勢い隣組の防空訓練を担当させられるはめに
なった。それが空襲記録を克明に残す奇縁になったわけである。池袋という限られた
狭い一視点から実際に見た管見に過ぎないが、その限りでは初空襲から最大漏らさず
記録した。この記録はもうらくがきの本領を逸脱してしまった。空襲というような
命がけの事態はらくがきの材料にはならないからである。」
判取帳というのは、領収印などを捺す和紙の綴りであるらしく、横開きで一定の
厚さがあるもののようです。その帳面に武井さんの画と文章が記されています。
らくがきとありますが、もちろん、これは発表するためのものではなかったので、
このように書いているだけであります。
この本に収録されている初日は、昭和17年4月のものでありまして、画に添え
られている文章には、次のようにあります。
「 四月十八日帝都初空襲あり 四月十九日の空襲警報に蓮見くめの見張番となるや
禿犬ぞろぞろと随伴出勤 忽ち道路を塞ぐ 行人犬をかき分けて通過す 」
画には、見張番 蓮見くめさん(とっても太った女性)とやせ細った犬4匹が描か
れています。
その後は、疎開学童の慰問のために田舎訪問した様子や空襲についての記録などが
ありますが、あまり直接に仕事の話題はでてきません。
昭和20年3月8日 東京大空襲の直前には、次のようにあります。
「 神田へ豆本状況偵察にでかけたら駿河台で百田宗治に出っくわせた マアお互い
に元気でと言って別れる
神保町は九段へむかって左手の二軒だけ焼けていた 」
このあと大空襲の模様がカラー頁で続き、8月を迎えます。
「 万民痛憤之日 八月十五日 昨夜の放送予告に明日正午に重要放送ありとの事で
あったがそれハひそかに想像し奉った通り聖上御自ら国民に告ぐ詔書の御放送で
あった 我が国としてハ真に未曾有の事であり蕪耳庵陋屋内に玉音の響きたまふが
ごとき御事実に遠祖以来想像だも及ばざりし事也 朝の報道にてこの予告を聞き
涙とどめあへず 定刻近づくや衣服を改め高林徳治さん方の子供さん四人とともに
拝聴す 首相のアナウンスに次ぎ君が代終わって玉音を拝す御語調に真に迫るもの
あり、我が国ハ原子爆弾の出現とソ連の宣戦とにより忍び得ざるを忍び遂にポツダム
宣言を受諾し 茲に戦局を終局せしめたのである、万民寂して声なし 」
先の戦争が終わって63年となりました。なんといっても平和なのはありがたい
ことですが、昔であれば戦争にかり出されていた世代が、別な不幸にみまわれて
いるようで、時代に負けないようにしなくてはいけませんです。