昨日に続いて

 本日も昨日に引き続きで佐多稲子さんの「ひとり旅ふたり旅」から話題を

いただきです。

 この本は旅行にいった話があれば、心にきざむ人たちということで人物に

ついてのものがあり、編集者についてのものもありました。

 旅にでる話では、隠岐の島へといく話が印象に残ります。ちょうど今週の

NHKBSの「新日本風土記」では「隠岐諸島」を取り上げていまして、隠岐

島といえば、相撲取りの「隠岐の海」ばかりでないことがわかりました。

 佐多さんの「隠岐の島」へと行く話の書き出しは次のようになりです。

隠岐の島というひびきにはひとつのニュワンスがある。そこが遠島の島で

あったと知っているからであろう。その隠岐へたまたま渡ることになったの

は、友人の原泉さんに誘われてのことであった。」

 隠岐の島というのを、当方は丸谷才一さんの「後鳥羽院」で知ることになり

ました。佐多さんも隠岐の島の話では、この島に流された後鳥羽院について

触れています。

後鳥羽上皇は承久三年(1221)七月十三日に都を出発、八月五日に美保関か

ら乗船されて、島前海士部崎村の湊に入港し、上陸されたのはその夜も更けて

からであったと隠岐郷土研究会発行の『隠岐後鳥羽院』(田邑二枝著)に

でている。『われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け』の御歌は、

私たちの宿へ着いてすぐ目についた後鳥羽上皇のお歌だが、御身分とその心境

がはっきりとうかがえるような歌だ。」

 相撲取りの「隠岐の海」というのは、ここから取られたわけではないのかも

しれませんが、それにしても実に歴史を踏まえた良い四股名であることです。

それはさて、丸谷才一さんもその著書「後鳥羽院」で、このお歌にふれるので

すが、もちろん、それにはとどまらずで、むずかしい話になっていきます。

 そのむずかしい話はおいとくとして、丸谷「後鳥羽院」の文庫本あとがきに

あるところから引用です。

「わたしが国学院大学をやめた年の春、彼一流の優しいいたはり方で、野坂昭

如が山陰へ連れ出してくれたとき、皆生の宿で、とつぜん隠岐へゆかうといふ

話になったのである。あのときわたしは、後醍醐さんのほうはともかく後鳥羽

院には縁があるから、と言ったのではないかしら。・・

 あの島でわたしがいちばん感動したのは、陵の隣りの、後鳥羽院を祀る隠岐

神社の花ざかりにたまたま出会ったことである。あの満開の桜は『ながながし

日もあかぬ』と言ひたいくらゐきれいだった。わたしはこの景色を『笹まくら』

に取入れることにして、徴兵忌避者と家出娘とに、隠岐神社で花見をさせたの

だが、あとで気がついてみると、野坂も『受胎旅行』のなかで、どうしても子供

を授からない夫婦にこのお宮の端を眺めさせてゐた。」

 「後鳥羽院」の本文は、ほとんど読むことができていないのですが、このあと

がきのくだりは大好きでありまして、いつか隠岐の島へと桜の時期に行きたいと

思っているのですが、残念ながら今年も行くことはできそうにありません。

後鳥羽院 第二版

後鳥羽院 第二版

  • 作者:丸谷 才一
  • 発売日: 2004/09/28
  • メディア: 単行本