小沢信男著作 228

「自動車学校の生徒には、道楽息子たちと、高収入期待の貧乏人たちの二階級があった」
のでありますよ。この自動車学校というのは、1920年ころの話ですから、当方の父が
生まれたころの話です。当方の父は、結局自動車運転に縁がなかったのですが、当方の
小学校時代(50年ほど前)において、いなかで運転免許を持っていた人は、極めてまれ
な存在でありましたですね。子どものころに馬車にのせてもらうことはよくありました
が、動くオート三輪にのせてもらったことはほとんどなかったですからね。
 まして営業車なんて、のったこともありませんでした。当方が育った環境がいなか
すぎるということもあるかもしれませんが、「円タク」という言葉が、今ひとつピンと
こないのでした。
 「高収入期待」とはいうものの、この道は相当に険しいものであったようです。
足穂は、あっさり三ヶ月で免許を取得とありますが、小沢さんの御父上が免許取得まで
の道を、次のように記しています。
「父は足穂より二歳年上になるが、東京に唯一の自動車学校をめざして十九歳で上京し
た。
小学校しかでていないので、品川で新聞配達をしつつ荏原中学の夜学へまず通い、英語
や化学の初歩をまなんだ。自動車業界に入り、実地に助手をしながら進学したので、おそ
らく足穂の後輩になるだろう。おりしも蒲田と大森の二校に分裂して、月謝の値下げ競争
をはじめたので助かったというし。そのころ勉学ノートをいつぞや覗いて、小学卒には
さぞや過重と察しられた。・・・苦心して取得した父の甲種免許証は東京府下で千四百
ナン番か。お先っ走りの千四百余人のなかに稲垣足穂もいた。父は生涯を自動車業界で
すごし、かくいう不肖の息子もふくめて五人の子どもを育てあげました。」
 一方の道楽息子のほうはというと、「明石に帰郷した足穂は、さっそく友人と共同し
て、飛行機の製作をはじめた。エルブリッジ四十馬力装備の複葉機を組み上げた。
自動車学校仕込みのメカニズムの知識が役立った。試みにエンジンを始動させるとすさ
まじい爆音がして、近隣からどなりこまれて、それっきり。飛ばずじまいの飛行機
だった。
 せっかくの甲種自動車免許証の資格も、足穂は、結局、生涯一度も使用しなかった。」
とあります。