竹内勝太郎の形成3

 昭和10年(1935)に亡くなった竹内勝太郎さんの日記と来信が、没後
30年もたって保存されていたということが、信じられないことであります。
これを保存していたのは、まずはご家族なのでしょうが、いつ頃に富士正晴さんが
これらを預かって、整理などの作業を開始したのでしょうか。師匠がどのような人と
交流があって、どのような手紙のやりとりをしていたのかを、後世に伝えていく
ことは意味のあることであるという信念に支えられていまして、手紙を読むと同時に、
それに竹内勝太郎さんの日記にあたって補強し、富士さんのコメントがつくという
構成となっています。
 昭和7年(1932)5月17日のこととして、次のような富士さんの記述があり
ます。
「 富士正晴は三高文科一年丙類 野間宏と同文科一年甲類 桑原静雄を紹介するために、
 勝太郎を訪ねた。これが、翌年創刊の『三人』のもとになるのだが、勿論、勝太郎の
日記に、三高生が三人来たなどの記載はない。五月中旬、志賀直哉を奈良に訪ねたこと、
又、紫峰と大阪で山中の大美術展を見たこと、ルネ・クレールの『我等に自由を』を
見たことなど、簡単に書いているだけだ。・・」
 大正二年からはじまる来信書簡集ですが、それから20年ほどたって、やっと
富士正晴などの名前がでてきます。600ページに及ぶ著作の500ページになろうと
しているところです。
 同人誌の「三人」は、その後さらに同人を加えていくのですが、新たに同人に
加わった学生が左翼運動の読書会に関係して警察に拘束されることになります。
その仲間のことを心配して、富士正晴が竹内勝太郎の警察への働きかけを期待する
手紙をだすのですが、残念ながらそれへの返信はなく、竹内の5月28日の日記に、
これへの記載があるのでした。
「 最近の左傾運動の疑いで井口が高槻に上げられた。思想を精算して、よき転向を
 遂げ、詩とフランス哲学を一生の仕事とするよう決心したときなので、大阪府
内務部長に紹介状をもらって同君の母親と野間桑原の二人を大阪へやり、釈放を
頼ませた。昨日帰ってきてやってきたが、元気だ。すこし静養した後京都へ移らせ、
富士正晴を加えた四人で一軒家を借りさせて、共同で勉強できるようにしたいと
思っている。・・自分ともで七人になるから、そうすれば此の団結力は相当圧力を
もつようになると思う。純と、若さと熱とで進んでいく。彼らを見ているのは
楽しい。之がやがて一つの鬱然とした一つの林となることを待っていたいと思う。
 兎も角之れ等の若木はいまの頃健やかに生長しつつある。」