竹内勝太郎の形成2

 富士正晴が自分の師匠である「竹内勝太郎」が残した日記と竹内宛の手紙を
読み込んで、「竹内勝太郎の形成」はなりたっていますが、日記と手紙を付け
合わせて人物像を浮き彫りにするというのは、ほんとうにすごい力業であります。
 普通は、竹内勝太郎の発した書簡をまとめるのが一般的な手法でありますが、
とにかく、竹内宛の手紙です。(本当に昔の人は、よく手紙をかいているものです。)
 富士正晴がだした書簡で、この本に掲載されているのは、昭和6年11月23日の
日付のものであります。富士正晴は、数え年19才とありました。
 この時の手紙本文は、次のようにあります。

「 先生の健康なのを実にうらやましく感じました。僕自身の不健康な詩とひき
くらべて、先生の燃え上がるやうな、輝くやうな詩の明るさに先生と僕の肉体の
差を激しく感じました。・・・先生の詩の中に大らかと言ふ言葉がよくでて
きますが、本当に、先生の詩は『大らか』をもっている豪華な詩だと思います。」


 自分の19才の時の書簡を引用してから、富士正晴さんは次のようにいっています。
「 数え年19才の頃の自分の手紙をここに出さなければならぬとははなはだ憂鬱で
 ある。しかし、この19才の少年が神経衰弱の暗い鋭い顔をしてやってきたことが、
 結局は、野間宏、桑原静雄、井口浩などを勝太郎に結びつけることになるのだから、
 まんざら重大でないこともない。
  富士正晴は多分、十一月の初旬か中旬、手紙を出してくることを許されて奈良に
 奈良に志賀直哉を訪問し、何を思ったか散文も書いてあったのに詩を持って行き、
 そのため竹内勝太郎への紹介の名刺をもらったのだった。」
 
 しかし、この大部となる原稿を、出版の見込みがないのにまとめて、どこも
だすことがなければガリ版で、自費出版すると考えているというのが、すごい
ことであります。