「上方芸能列伝」

 

決定版 上方芸能列伝 (ちくま文庫)

決定版 上方芸能列伝 (ちくま文庫)

 
 小生がこども頃に楽しみにみていた番組には、関西で製作された
お笑いドラマがありました。小生は関西から遠いところに住んで
おりましたので、「てなもんや三度笠」という番組は評判のみを
聞くにのみで、じっさいの番組をみた記憶はありませんでした。
本当は、放映されていたのかもしれませんが、ちょうど難視聴地区に
住んでいて、見ることができなかったのかもしれません。
 一番早くにみた番組は、大村昆が主演したドラマでありまして、それ
には、芦屋雁之助兄弟が共演をしていたのでした。
 そのあとには、「スチャラカ社員」とかいう番組があって、それには
若いころの藤純子さんがでていたのを記憶しています。
当時の番組は生放送が中心でありましたのでVTRが全盛の現在にはない
熱っぽさがありました。
 そうした番組制作の中心人物が澤田隆治さんでありまして、澤田さんは
時代の生き証人であります。小生が子どものころに、すでに売れっ子で
ありましたので、いまは相当にお年寄りとおもいましたら、これが
まだ73歳くらいというのですから、おどろきです。あの番組を制作
していたときは、まだ20代でしたでしょう。
 テレビという、若いメディアですから、このようなひとたちでも
一人前の仕事をまかされたのでしょう。
最近のテレビ業界では、28歳くらいというと、どのような役目を
担っているのでしょうか。
「 私がはじめて人生さんに会ったとき、私は二十代、人生はんは
もう五十代だったはずだが、生意気盛りの私は、師匠と呼ばず”人生はん”と
呼んだ。昭和30年代、戦前からの大看板のゴロゴロしていた大阪の
漫才界で師匠と呼ぶべき人はいっぱいいたし、もはやそのころ漫才の
人気を左右する力を完全にもっていた民放ラジオの演芸プロデューサーと
しては、誰を師匠と呼ばないかでプロデューサーのパワーを知らしめて
いたらしい。先生をつけるのは捨丸先生とエンタツ先生だけ、アチャコさんは、
御大と呼ぶのがきまりで、あとはプロデューサーによってまちまちだった。
少なくとも私は誰にでも”師匠”と呼びかけるプロデューサーではなかった
のだ。」 ちくま文庫「上方芸能列伝」