三日遅れの便りを

 その昔に「三日遅れの便りをのせて」という歌詞からはじまる歌謡曲がありま

した。この「三日遅れ」は手紙を投函してから、すぐに配達に回されるのではなく

て、ポストから回収された郵便局に留め置かれるというものであったように思い

ます。

 離島の郵便事情で悪天候などがありますと、連絡船が欠航してしまって、郵便は

届きもしなければ、島からでることも出来ないという時代があったのですね。

この事情は、ほぼ現在も同じであるようで、離島での生活は、そういう意味からは

お天気に左右される割合が、他よりも多いようであります。

 当方の三日遅れというのは、このところの郵便事情によって発生する事態であり

まして、普通郵便は金曜に届かなかれば、週明け月曜まで配達がないわけですから、

手にすることができないということで、それがお嫌でしたら、速達でということの

ようです。63円で届けてくれるハガキに、スピードを求めるほうが間違いであり

ますね。

 三日遅れて手にしたのは「みすず」9月号でありまして、これは先日にぐんま様

がコメント欄に書き込みをしていただいたように、「休刊のお知らせ」が掲載に

なっているものです。

 現在の「みすず」は来年8月刊行までで休刊ですので、あと1年ですか。いつも

でありましたら、読みにくい文章なので読まんで終わるのですが、残り少ないと

なると、あらためてしっかりと読まなくてはと思うことで、これは先日に話題にし

廃線が決定してからあわててその路線を利用してみようというミーハーにかわる

ところなしです。

 本日に「みすず」を手にして、気になっていて読まなくてはと思っていた上野

千鶴子さんの「アンチ・アンチエイジングの思想」を、流し読みすることにです。

 この連載は、「ボーヴォワールの『老い』を読む」という副題でありまして、

「老い」を読みながら考えたことが書かれています。

 今月は「知識人の老い」ということで、話は進むのですが、当然に自分のことに

ひきつけての話となります。

「四十代までに確立した名声を維持するために、五十代にはいって自己模倣を始め

る先輩研究者たちを、わたしは底意地の悪い眼で見てきた。名声と地位は五十代に

ゆるぎないものになるが、自分自身の創造力が衰えていることを誰よりもよく知っ

ているのは自分自身である。創造者の自負のある者ほど、その内面的なギャップに

苦しんでいるはずだ。だが同じ視線は、わたし自身に跳ね返ることになった。

 わたしが先輩研究者の背を見て学んだことは、後半の人生に向けて、自分のジャン

ルを大胆に変えることだった。」

 上野さんはこのように書いていますが、これは専門がある世界の人の話でありまし

て、辞令一枚で畑違いの仕事をつくことが珍しくない日本のサラリーマンでは、好ま

ないのに大胆に変えざるを得ないこともありですね。

 それも定年退職ということで仕事をやめましたら、それまでの経験を活かすところ

でなんて言っていたら、いつまでも仕事にありつくことができないでしょうよ。

 まあ、今回のタイトルは「知識人の老い」でありまして、平凡な勤め人の老いとい

うのは、どうなるのだろうというのは、当方の課題でありますね。

 外での仕事をやめたら、自宅で家事とかを積極的に担うというのが、後半の人生の

ために必要であるように感じて、まわりの同年輩の男性たちを観察しているところで

あります。

 

反戦小説集なのかな

 週末は、梶山季之さんの「李朝残影」などを手にして過ごすことになりです。

 今回の文庫を購入したときにも記したのですが、梶山さんというと売れっ子の

ライターさんという感じで、たくさんの仕事をこなしている時に、亡くなったと

いう記憶が残っています。健在のときには、梶山さんは違った世界のライターさん

でありましたが、亡くなってから古本小説を楽しみ、そして初期の小説を読むこと

になりです。

 今回の光文社文庫版には表紙に小さく「反戦小説集」と刷り込まれているのです

が、反戦というか厭戦というかであります。

1930年朝鮮生まれの梶山さんですから、敗戦を迎えたときは15歳でありまし

て、すでに分別のある年齢ですので、彼が朝鮮で感じたことというのは、その世代

の人たちにとっては思い当たることがあったのでありましょう。

 すくなくとも、最近の純粋戦後世代の人たちとは併合時代の印象は違うはずであ

ります。それは占領政策によって、そう思わされるようになったとか、自虐という

ことではないでしょう。

 この「李朝残影」という文庫本には、五本の小説が収録されていますが、表題作

と「族譜」という二本を読んだだけでありますが、これがけっこう苦痛を伴う読書

でありました。もちろん、その苦痛というのは大日本帝国朝鮮半島で行ったこと

について読むことになるからであります。。

 「族譜」というのは、総督府が行う創氏改名をすすめるために末端の行政職員

である主人公は、誇り高い朝鮮の長老と自分の上司に挟まれてしまって悩む話で

あります。

 創氏改名は強制ではないけども、それに応じなければいろいろと不都合が生じ

るというような締め付けで、長老さんを攻めていくのでありました。

あくまでも強制ではなく、任意ではあるので、受け入れるかどうかの自由は保証

されているけども、受け入れないときには、それ相応の不利益があるというよう

な仕組みであります。

 朝鮮半島での徴用というのには、この手法が普通に使われていて、それがため

に強制ではなくて、彼らが手をあげて参加したのだというのでありますが、最近

の若い人は、そうか強制ではなかったのかと安心するようです。この背後には

ものすごい圧力が働いていたわけでありまして、その苦しさでありますね。

 梶山さんは、小説で次のように書いています。

創氏改名をしたら、日本人と同等に待遇しようと、表面では甘い餌を曝しなが

ら、その実、当局が考えていたのは、何であったか。それは日本国民であるが故

に、果たさなければならない義務、つまり徴兵であり、徴用だったのである。

また税金であり、供出であった。従来の志願兵制度を、一気に徴兵制度に切り換

えるための、準備工作だったのだ。」

 創氏改名することによって日本国民になるという、この小説を読んでいて、頭に

浮かんだのは、数年前にあった大相撲の横綱の国籍取得のことでありました。

できるだけ昔からの伝統に忠実であろうとする大相撲の世界と、国際化した競技

としての大相撲の世界に入った人の、考え方の違いですね。

 日本国籍を取得しなければ、大相撲の親方になれないというのは、日本的な家

族感の反映でありましょうか。この家族感は、いつまでがんばることができるで

ありましょうか。

山線の魅力

 本日の新聞日曜版に連載の原武史さんの「歴史のダイヤグラム」は「消えゆく

『山線』の魅力」というタイトルで、JR函館本線を取り上げています。

 書き出しは、次のようになっています。

「函館と旭川を結ぶJR函館本線は、1880(明治13)年に一部区間が開業し、

1905年に全通した北海道最古の主要幹線だ。だが、2030年度をもって、同

線の長万部ー小樽間(140.2キロ)の廃止が事実上決まった。新青森と新函館

北斗を結んでいる北海道新幹線が、札幌まで延伸されるためだ。」

 1880年といえば、札幌はやっとこさ開拓使がおかれて開かれてきたところで、

函館からしますと奥にある新開地となります。鉄道で結ぶにはできるだけ最短ルート

ということで、この「山線」というのに決まったのですね。

 今では函館から札幌という鉄路は、「長万部から分岐して噴火湾や太平洋沿いを

走る室蘭本線が『海線』と呼ばれ、函館と札幌を結ぶすべての特急が『海線』経由

になっている。」とありです。

 当方が学生であった1970年代前半は、国鉄の長距離特急が多かった時代です

が、当方が関西の学校へと進学して帰省するときは、すべて「海線」を利用でした。

そのころは、急行で「山線」経由のものがあったように思いますが、わざわざ急行

を利用して函館にでることはなしでした。

 鉄学者 原武史さんは、「峠をいくつも越えつつ内陸部を走る函館本線長万部

ー小樽間の『山線』こそが、歴史的に見れば輸送の主役を担ってきた。その山線が

まるごと廃止されるというニュースに衝撃を受けた。」ということで、いてもたって

もいられずに、8月19日に北海道にわたり、この山線に乗車してのレポートという

のが、本日の「消えゆく『山線』の魅力」」となります。

 当方も、今年の夏の「青春18きっぷ」期間に、自宅から海線を利用して長万部

と向かい、長万部から山線利用で小樽に抜けて、小樽から自宅最寄り駅に戻ってくる

という一筆書きの鉄道旅を計画しておりました。始発駅にまた戻ってくる一筆書きと

いうのが、なかなか面白くて、数年前に一度、実施したのですが、それからにおいて

北海道の鉄道事情は悪くなりまして、以前よりも乗り換えが多くなったりしています。

以前は自宅最寄りから長万部まで直通で、そのあと乗り換えたら小樽までも一本で、

小樽からも一本でと最低限の乗り換えで済んだのですが。

 今の時刻表ではどうなのだろうと、北海道鉄道旅行の力強い味方「交通新聞社

北海道時刻表」を購入し、列車の時刻と乗り継ぎを確認をはじめたのですが、一緒に

行きましょうといっていた方が、ちょっとコロナの感染状況が収まってからにしよう

ということになり、今回の青春18きっぷの期間での実施は見送りとなりました。

 それにしても、乗り鉄 原さんは行動的であることで、鉄学者のかがみであります

ね。

 

屋上屋になるのか

 図書館から借りている超弩級の本は、重い重いといいながら自宅に持ち帰り、

そのままでさっぱり手にすることもなしで、何週目かの週末を迎えています。

まずは、それを手にすればいいのに、昨日に図書館に行った時に、こりもせずで

またまた超弩級の本に手をだしてしまうことになりです。

 このようなものは、なかなか借りる人がいないでありましょうから、読めなく

とも借りて、実績をつくるだけでもいいかなです。それにしても、このような本が

よくぞ、この時代に出版となり、それがこの町の図書館に入ったものです。

 4年ほど前に冨山房百科文庫の「周作人随筆」を購入して、ちびちびとなかを

のぞいておりました。そんなこともあって、周作人には興味があったのですが、

平凡社東洋文庫からでている周作人の読書日記は立ち見をしたものの、ちょっと

読めそうもなくて、借りるのを断念しておりました。

 今回の自伝は、日本に滞在していたときのことや、詩人 エロシェンコに関する

ところがあるので、そこだけでものぞいてみたいと思ったものです。

新聞に連載したものなので、比較的読みやすいようにも思うのですが、なにせ当時

の世相に疎いことから、うまく読みすすめることはできるだろうかな。

 この自伝を書き始めた時の周作人さんは、「日本人のいわゆる『喜寿』をも迎え

た」頃でありまして、1960年頃のことになりです。

日本に留学をして北京大学で教鞭をとり、日本びいきであったこともあって、大戦後

には日本への協力者として下獄することになるのですが、最晩年は文化大革命の時期

と重なり、中国での評価は、今も微妙であるようです。

不甲斐ない僕は

 不甲斐ない僕はというのは、今回の直木賞を受けた窪さんの過去の小説のタイト

ルからの借用でありまして、ちょっとピリッとしないものですから、本日は図書館

に走ったという具合につながっていくのでありました。

 基本的には2週に一回図書館に行くのでありますが、今回は先週に引き続きで

あります。というのは、ずっと借りられていた文学界7月号が返却となっていて、

貸し出し可能となっていたのを確認したためでもあります。

 ということで、本日は「西村賢太 私小説になった男」という小特集を読んで

見ることにです。(以前に立ち読みをして、どのような人が書いているのかは、

承知しておりましたが、これなら買わないで済ますかとなったのです。)

 これの売りは、小説のなかで北町貫多からいいようにおちょくられている古書

店主のモデルである朝日書林 荒川義雄さんへの聞き書きがあることで、無名時代

の西村さんについて語っているのが一つで、もうひとつは未完の遺作「雨滴は続く」

に登場する葛山久子さんのモデルである新聞記者さんが、葛山久子という筆名で

寄稿していることですね。

 朝日書林さんは、「彼が亡くなってから、もうすぐ三ヶ月になりますが、彼の

膨大な蔵書をどうするかという仕事と向き合っていることもあり、彼の死を悲しん

だり、大きな喪失感を抱いたりということはありません。」と語っていますが、

これは4月18日に聞き取りしたものとあります。それからさらに4ヶ月は経過してい

ますが、まだまだ蔵書の行き先は決まっていないでありましょうね。

 これまでの西村さんとの取引では、朝日書林さんはほとんど営利を生み出すこと

はできなかったようでありますが、今回もまた同じ轍を踏むのでありましょうね。

西村さんが収集した田中英光関係の収集資料は、朝日書林さんが山梨県立文学館の

館長であった紅野敏郎さんに相談をして館で買い入れしてもらったということです

藤澤清造資料にあっても、同じようにできればいいですが。

しかし、最近の自治体の文学館、資料館はどこも予算がつかなくて困っていますの

で、なかなか価格の折り合いをつけるのは大変かもです。

 とはいっても肝心要の西村さんが亡くなっているのですから、遺族の人は価格に

ついてはうるさいことはいなわいでしょうかね。

 葛山久子さんは、「雨滴は続く」の登場人物であるようで、当方はこれを未読で

ありますので、作中でどのように描かれているのか、これはけっこう人気がありま

して、いつも予約が三人くらいはいっていまして、だまっていますと年内には手に

できないようでありますが、まあいっかです。

 

八月の終わりは雨

 八月も本日で終わりでありますが、朝から雨となりました。一雨ごとにで

ありまして、今年の八月は最高気温が30度を超えることもなく、このところは

すっかり涼しくなっています。本日の最高気温は21度に届かずで、半袖では肌

寒く感じることです。

 本日は野暮用から戻りましたら、梶山季之さんの「李朝残影」を読むつもりで

いたのですが、テレビ番組をダラダラと見てしまって、まるでできておりません。

こりゃいかんで、これからすこしやっつけなくてはです。

 梶山さんの文庫本にある四方田犬彦さんの解説に目を通すことにします。

 

次々に届いて

 先週くらいから出版社のPR誌が、次々と届くことになります。最初は「ちくま」

で、次いで「波」というのがいつものことに。当方の購読しているものでは、月が

変わってから届くのは「みすず」だけでありまして、PR誌が、次々と届くと、今月

も残り少ないと感じることにです。

 「波」の今月は、北村薫」さんの連載がなくて、ちょっと残念なことです。

楽しみにしている編集後記は、頭の一行に「蓮實重彦さんの『ジョン・フォード論』

刊行に合わせた」とありますが、その蓮實重彦さんは、「ちくま」では巻頭コラム

「些事にこだわり」を担当で、今回のタイトルは「政府は、いざという瞬間に、国

民の生命を防衛しようとする意思などこれっぽっちも持ってはいないと判断せざる

をえない」という長いものでありまして、思わず「博士の異常な愛情」かと突っ込み

をいれたくなりました。

 蓮實流の些事へのこだわりでありまして、それは「どうすれば元首相は殺されずに

すんだのか」ということであるようです。

 当方は、ほとんど蓮實さんの著作を読んだことがないので、これはこのくらいにし

ておきましょう。

 「ちくま」の蓮實さんの、すぐあとには「自治体と大学」の著者 田村秀さんに

よる自著に関する文章が置かれています。

 それからすこし引用です。

「いつの時代も自治体は地元に大学を作ることを切望してきた。無駄なことをして

いるのでは、という声は地域ではほとんど聞こえてこない。それは都会への怨嗟の

裏返しかもしれない。大学誘致や設立に百億円単位の税金を投入することを批判す

る声は都市部などでは大きな声となるのかもしれない。だが、地方にとっては切実

な願いなのだ。 

 もちろん、冬の時代は撤退の時代でもある。すでに、各地で廃校や学校法人の

すげ替えなど、居抜きともいえるような状況が増えている。それでも、大学を求め

る地方の声はやまない。」

 このくだりを読んでみて、さすが田村教授はわがマチの出身だけあって、わがマチ

がお百度を踏んで、来ていただいた大学が学生が集まらずに身売りしたことも踏まえ

て、このように書いているのでありましょう。

 それにしても1998年に開学し、300人弱の学生を集めて動き出した大学は、それか

ら20年ほどで入学者が30人を割り込むところまで落ち込んで、居抜きで経営者が変更

となったのですが、それでもわがマチではまた学生が集まることに期待しているので

ありますね。