本日の地元夕刊紙のお天気欄には、次のようにありました。
「17日は十五夜だが、今年は翌日の18日が満月。」
月齢が15といっても、その時点の月が見られるとは限らずであります。
荒井由実さんでありましたら、「十四番目の月が いちばん好き」と歌う
ところです。おかげで明日の夜にも楽しみは残ります。
本日はお月見で、近くでとってきたすすきに庭の花をあわせ、秋の
くだものとおまんじゅうなどをお盆にのせて供えることにです。
お月見をしながら、このところ読んでいる熊井啓さんの「私の信州物語」を
手にすることにです。
自伝的な文章でありまして、全体の半分くらいまで読んできていますが、まだ
旧制中学生であります。熊井さんは、昭和5年生まれですので、戦争が終わった
時は15歳ですね。15歳を境にして、前と後ろでは価値観がどっと変化してしまう
のですが、まだ戦時中の話です。
とにかく、この時代には戦時下ですから、勉強どころではなかったのですね。
長野県というのは、教育県ということになっていますが、その一方で満州移民を
日本で一番送ったことでも知られていまして、光のあてかたによって、見え方が
変わってきます。
せっせと移民を満州におくるのと同時に教育現場では、次のようなことが進行
していることにです。
熊井さんのいた松本中学の話です。
「緊迫した戦局下にあっての教育は<滅私奉公の殉国精神を啓培する>ことに
おかれた。清水校長は<戦線に死ぬ覚悟、銃後に死ぬ覚悟>を鼓吹し、<将来
は汝らのものである>と激励し、陸海軍諸学校への進学に力を入れていた。その
ため合格者数は県下はもとより、全国的にも抜群だった。」
戦後に育った当方には「陸海軍諸学校」とあっても、士官学校くらいしか思い
つかないのですが、幼年学校も飛行学校などなどでありまして、すこしでも早くに
軍人の道へ進むのが奨励されたのでありますね。
さすがに松本中学は、幹部養成につながる学校への進学を目指していて、熊井
さんが書くところでは、昭和18年度には、「海軍兵学校十四人、陸軍士官学校・経
理学校二十四名で、陸軍関係の入学率は仙台中学につぐ全国第二位であり、
清水校長にとって、本年度は全国一位をめざす年」であったのだそうです。
この時代は、こういう進学ランキングがあったということですね。