活字が輝いていた時代4

 中西秀彦さんの「活字が消えた日」には、中西さんが父が社長をつとめる会社に
入社した85年の印刷工場の様子が描かれています。その時代は、まだまだ「活字が
輝いていた時代」でありまして、大手の印刷会社では手を出すことができない特殊
学術書の印刷をこなす、ベテランの職人がいて、活気にあふれているようにみえ
ます。遠回りして30歳に近くなっていた中西さんは、ベテランの印刷職人の教え
を受けて、活字の文撰修行を始めたのでした。
 それからの数年で、印刷現場にもコンピュータが登場します。初期のコンピュータ
でありますし、高価なわりには融通がきかなくて、処理も大変であったのでしょう。
活版でなければならない仕事というのを、中西さんがあげています。
「 ひとつは電算写植にはないむつかしい文字を使う仕事である。そしてもうひとつ
は短納期や訂正の多い仕事であった。前者はまだしも、後者は意外に思われるかも
しれない。」
 活字印刷は、千部程度の学術雑誌ではむしろ平板印刷よりも早くにできあがって、
それまでの施設を活用できるので、少部数のものを受注してた印刷所では活字に
頼らざるを得なかったとありました。
 なるほどな、しかしコンピュータの進化は、どんどんと平板印刷のコストを下げて、
千部以下のものにもメリットがでるようになってきたのでした。
 ある日、学術雑誌の活版印刷を継続するのを困難にする事態が発生します。
90年代に入った頃のことです。
「中西印刷が特異にしていた生物学・医学系の学術雑誌には、かならずといっていい
ほどこまかい顕微鏡写真がはいっていた。」この顕微鏡写真を活版で表現するために
は「写真用銅板」というのを使わなくてはいけないのですが、この「写真用銅板」の
供給が途絶えることになります。
「銅板の供給停止通告で活版の仕事範囲が一段と狭められてしまったことになる。
銅板も商品であるかぎり、需要がすくなくなれば供給が減るのは当然だが、資本主義の
冷厳な原理は、たとえ需要があっても損益分岐点を割り込んだ時点で供給そのものを
とめてしまう。・・そして案の定、銅板の供給停止は事態の幕開けにすぎなかった。
活版をめぐる状況はますます悪化の一途をたどっていく。次の年は今度は亜鉛罫が
製造中止になってしまった。」
 90年代の初め頃に、当方のしらないところでは、このようなことがおこっていた
のですね。当方の身近な雑誌で、さいごまで活版印刷で発行を続けていたのは、
本の雑誌」ですが、あの雑誌が活版をやめたときには、印刷をうけていたところで、
活版でやっているところは俳句誌「ホトトギス」のみとありました。あれはいつの
ことであったでしょう。