国語の教科書14

 高校3年生の教材は、いまでも記憶に残っているものが多くあります。
森鴎外の「舞姫」は、もっと早くにならっていたと思いましたが、まあ留学でいった
ドイツで女性と恋仲になって、捨てる話しでありますから、高校一年生ではちょっと
早すぎるでしょうか。
 大江健三郎の「戦後文学をどう受けとめたか」とか、丸山真男のものは、高校三年で
あったと覚えておりました。田舎の高校生であっても、大江健三郎の名前を覚えて
いたのは、「性的人間」という作品を発表していて、この文庫本を、エロ本のような
気分で回し読みなどをしていたからでしょうか。高校時代は、ほんとうに本を読んで
いないのですが、大江健三郎の「死者の奢り」くらいは読んだのかもしれません。
 それは「性的人間」とか、この「戦後文学をどう受けとめたか」を読んだせいで
親しみを感じたからかもしれません。
大江健三郎は、当方よりも学年で15年上でありますが、この文章を教科書で目にした
ときでも、33歳の若さでありました。最近の朝日新聞で文章を読みますと、大江
健三郎はますます読みにくいものになっているように思いますが、いまから40年前に
は、ずっと読みやすいものです。
 書き出しの文章は、次のようなものです。
「 ぼくにとって、戦後文学、あるいは戦後文学者ということばは、常に、深く激し
く、鋭く、喚起的だった。それは『意味』をもっていた。ぼくとほぼ同年代の者にも、
これらのことばにまったく反応しない連中、これと鈍感にしか触れ合わない人たちが
いるから、ぼくの頭の中で、これらのことばが常にぶんぶんうなりたてる『意味』は、
きわめて個人的な性質のものかもしれない。」
 文章が入り組んでなくて、シンプルですね。このような文章であれば、読んでみよ
うという気になりますでしょう。
「 ほぼ同年代の者というのは、たとえば1932年生まれの石原慎太郎と、1933年生
まれの江藤淳だ。石原は、ある雑誌のための座談会で、戦後文学者たちについてどう
思うかと尋ねられたとき、「ああ、あのだめになった人たちか。」と言った。微笑し
ながらではあるが、かれがそういったとき、隣のいすにすわっていたぼくは微笑を
失った。ぼくは、そのように反射的に揶揄の反応できる軽いことばとして、戦後文学、
戦後文学者ということばを自分の内部に存在させているのではなかった。」
 大江健三郎は1935年生まれですので、石原慎太郎よりも3歳下でありますが、
「あのだめになった人たちか」という言葉は石原のことをを嫌いにするに充分なもので
あります。