国語の教科書2

 学校で使用される教科書というのは、基本的には普通の読者を想定していないので、
広告されることもなく、一般の読者からは縁遠い書籍であります。丸谷才一さんが
筑摩書房「国語教科書」を推薦しても、ほとんどの人は目にすることもないでしょう。
「日本の古本屋」で検索をかけましたところ、「岩波国語」でヒットするのは国語辞典
でありますし、「筑摩現代国語」でも教科書にはヒットしません。かっての「国定教科
書」は覆刻されたりしているのですから、すこしは古い教科書が流通していてもいいの
ですが。
 筑摩書房が、最初に教科書を出したのは、「筑摩書房の三十年」によりますと昭和
32年度とあります。
「 筑摩書房としては、国語研究所と結びついて、国語辞典や、教科書などを、将来は
出したいとも考えていた。
 出版社を、ゆるぎない状態に据えるためには、雑誌か全集か辞典、または教科書で
成績を擧げることだということが常識になっている。この頃、筑摩書房の幹部は、高い
授業料を払いながら、自然に手さぐりで、出版界に生き抜く知恵を身につけつつ
あった。昭和32年度から『中等国語』、34年度から『高校国語』を手がけたのも、
この頃の考えを試みたということになろうか。」
 筑摩書房が教科書を出すにいたったのは、経営を揺るぎないものとするための方策と
ありますが、採択率がそう高くなかったのでありますから、思惑通りではなかったの
かもしれません。もう一つは、国語研究所との人的な結びつきであります。
「昭和26年9月号で『展望』は休刊になった。昭和21年1月創刊だから、数えて
69冊目であった。この『展望』が、敗戦後の日本が思想的にも文化的にも虚脱状態に
あったとき、どのような寄与をしたかは、言うまでもないことであろう。・・・
 『展望」の休刊と同じ月10月創刊で、月刊雑誌『言語生活』が出た。・・
 『言語生活』国立国語研究所の責任編集であった。当時、所長が長野県出身の
西尾実で、また筑摩書房と関係の深い柳田国男が国語研究所の評議員であったことも
『言語生活』の創刊に幸いしたようである。・・・
 国語研究所は、国語教育と言語研究の二部に分れていて、言語研究の部長は、岩渕
悦太郎であった。『言語生活』が、創刊当初から言語研究の啓蒙雑誌という性格を
持っていたのは、臼井吉見が兜をぬぐほどのすぐれた編集感覚を、岩淵悦太郎が身に
つけていたからである。
啓蒙雑誌をやるには学者ではだめだという見地から、臼井吉見を名指しで引き出した
のは、あるいは岩淵かもしれない。」  
 「筑摩書房の三十年」のこの記述があるページには、最初の教科書となった中学生の
「国語」の表紙写真が掲載されていますか、これには「西尾実編」とありますので、
「言語生活」から6年して国語研究所の所長の名を冠した国語教科書が、世にでたこと
になります。