わたしと筑摩書房6

 筑摩書房2代目社長である「竹之内静雄」さんについての柏原成光さんの評を見て
違和感を感じたのは、それまでに竹之内静雄さんの著作にふれて、親しみをもっていた
からであります。
 竹之内静雄さんは、旧制高校時代に富士正晴野間宏と同人誌「三人」をやっていた
のですから、世が世でありましたら作家となっていても不思議ではないのですが、
筑摩書房の編集者になってからは、ほとんど作品を発表することなしでいたようです。
唯一の例外(?)は「ロッダム号の船長」という作品ですが、これは昭和24年下半期
芥川賞候補作品となっています。(この時の受賞作品は井上靖「闘牛」ほかの候補に
島尾敏雄阿川弘之などがありました。)
 この作品は、ほとんど忘れ去られたものでしたが、「現代文学の発見」(学芸書林
別巻に収録されて、筑摩書房の社長の若き日の作品としてほんのすこし話題となりま
した。竹之内静雄さんは、66年1月に社長となり、72年3月に社長辞任、12月に
退社とあります。
 本格的に作家としてデビューしたのは退社した3年後となる75年に「大司馬大将軍
霍光」(中央公論社)という作品を発表したことによります。この作品のあとがきには
次のようにあります。
「 京都大学二回生の時、だから1937年、小島祐馬教授特殊講義のレポートとして
『霍光』を書いた。400字で50枚あまり。『あれは小説でも書く気なのかしらん』
と先生が言われた由を当時のわたしは耳にした。
 俗境に雑作し、たちまち35年がすぎさる。無職の身になることができた時、とき
おり心に去来していたもう一人の恩師のことばが昨日の事のように思い浮かんできた、
『十年間一心に学べば何者かになれるものだ』と。始めるにおそいということはない。
生命がつづくかどうかは当人にも分かることではないのだから。
 やがて中央公論社粕谷一希君にすすめられて筆をとり『歴史と人物』73年7月号〜
74年1月号)に『霍氏一族』として連載、残りを書き下ろしたのが本書の初稿である。」
 このあと82年になってやっと「先師先人」(新潮社)を発表することになるわけです。