わたしと筑摩書房7

 筑摩書房の二代目社長 竹之内静雄さんが恩師である「竹内勝太郎」ほか京都学派の
人を中心とした肖像集「先師先人」を新潮社から刊行したのは82年6月のことであり
ました。
社長を退職してから自著を出すときには、かって在職した会社から出さないというの
は、ルールのようであります。竹之内さんの場合は、最初が中央公論社で、二冊目は
新潮社となります。岩波の二代目社長である小林勇さんの場合も、ほとんど他社からで
ありまして、作品集は筑摩書房からでした。
 柏原成光さんの「本とわたしと筑摩書房」には、次のようにありです。
「 出版社の多くは、その進歩的な発言にもかかわらず、菊池寛文藝春秋を除いて、
当時は岩波書店を含めて、ほとんどの社長が世襲制だった。しかし、古田氏は状況と
してはそれが可能であったにも関わらず、その道をとらなかった。」
 出版社の社長が自分のところから本をだすというと角川書店などでは普通にあること
ですが、これはオーナー会社であるからでしょうが、ほとんどの出版社は零細で
オーナー会社であって、そうでないところをさがすほうがたいへんでしょう。
自社から社長が自著をだすというのはオーナー会社のあかしであり、サラリーマン社長
はそうすべきでないということでしょうか。
 出版で編集の仕事をしていても、退職して出版社をおこす人がいれば、編集プロを
つくる人もいるようです。柏原成光さんが筑摩書房で兄事した原田奈翁雄さんは、筑摩
退職後に、自分で会社をおこしていますし、気質としてはオーナータイプであったよう
です。
柏原さんは、退職してから数年間を一編集者としてすごしたとありますので、影響を
うけた原田さんとは気質がちがっているのでしょう。
 ということで、竹之内静雄さんは退職されてから、どうされていたのでしょう。
「 1972年3月末、32年間の勤めをやめてから、私は離群索居、10年間、
ひたすら書物を読んでくらしてきた。すこしものを書き、夕方になると酒をのむ。
たまに碁を打つ。
 碁敵の一人、新潮社大門武二さんのすすめで、私は『双視の人』を書き、この本が
でることになった。私はほんとうに嬉しい。大門さんと新潮社の方々に感謝している。・・
 50年間、折にふれて書いたもののうち、『先師先人』についての文をここに選んで
みて、私には改めて感じられることがある。
 なんと多くのすぐれた方々に、私はめぐまれて、接することができたものであろう
か、という感謝の思いがそれである。」( 「先師先人」のあとがきから)