高杉一郎さんは、大学を卒業してから「改造社」という出版社に入社しています。
戦後生まれの小生には、雑誌の「改造」とか、改造社といわれても、時代に果たした
役割とか、存在感のようなものがうまくつたわってきません。
作家の「上林暁」さんは、自分が「改造社」の試験を受けた時の社長面接の様子を
まくらにして、そのあとで自分が古参社員となって採用試験を行ったときに、採用した
なかにいた「後年に名を成すところの三人の秀才」についてを「入社試験」(52年)
という作品にまとめています。
上林さんがあげている「秀才」のひとりが、のちの高杉一郎さんでありました。
「この時採用と決定したなかに、後年名を成すところの三人の秀才が含まれていた
のである。この三人の秀才を選抜したことによって、私たち選考にあずかった者は、
面目を施してもいいのではないかと思う。すくなくとも私は自慢話の種にしている
のである。・・
そんなひとりは、淡い青色のフランネルのような地の、瀟洒な背広を着て、
ロイド眼鏡をかけていた。その背姿は、いまでも鮮やかに私の眼前にありありと
する。私は背後にいたので、私の印象に残ったのは、何れも肩から背にかけての
姿ばかりなのである。・・
この青年は小川五郎といって、東京高等師範の英語科出身で、大きな声で非常に
ハキハキとした返事をして、明るい感じだった。私はその人物を買って、80点
くらいをつけたように思う。」
採用試験は昭和8年のこととありますので、ほぼ20年たってからの印象であり
ます。東京高師では、福原麟太郎さんの教えを受けていて、英文学が専門でした。
「 小川君は、改造社では、私とゆかりの深い『文芸』の編集長になっていた。
窮迫のどん底にあった私にとって、起死回生の作となる小説を『文芸』に
書かせてくれたのも、小川君であった。小川君は、阿佐ヶ谷に住んでいたので
子どもを乳母車に乗せて、度々私の家へ遊びにきた。
戦争にいかねばならなくなった頃の、小川君の憂色に閉ざされた暗い顔も
忘れられない。後に残った奥さんたちが、小川君の郷里の伊豆へ疎開して帰る
時には、私は丁度行き会わせて、荷造りの手伝いをした。・・
戦争が終わっても、小川君は満州から帰ってこなかった。シベリアへ引っ張ら
れていっているという噂だった。伊豆にいる奥さんから、便りをもらったことも
あった。手内職をして子ども二人を育てながら、小川君の帰りを待ちわびている
文面であった。
私が阿佐ヶ谷で度々一緒に飲んだ人に、東童劇団の大森君という人があった。
ある時、どういう話のきっかけだったか、『小川五郎の女房は、僕の姉です。』と
大森君がいうのである。私は驚いた。・・・
その後、また大森君にあった時、私は小川君がシベリアから帰ってきえいること
を知らされた。・・小川君から手紙が来て、シベリア呆けしていると書かれて
あった。それから、去年の秋のことであった。高杉一郎の『極光のかげに』が
世評を高めつつある頃だった。私は、久しぶりに大森君と落ち合った。
『極光のかげに』を書いている高杉一郎は、小川五郎ですよ』大森君がいった。
『高杉一郎が、小川五郎だって?そいつは初耳だ。』」
高杉一郎さんの仕事には、シベリアもの、エロシェンコほかエスペラント関連、
児童文学の翻訳、イギリス文学の翻訳というジャンルが多岐にわたっていますが、
編集者時代の活動を伝えるものは、ほとんど発表されていないように思います。
上に引いた文章にある大森さんの奥さんが、作家 宮本百合子さんの秘書を
つとめていたことから、宮本百合子さんに編集者として関わったこともあると
かかれていました。編集者時代についての文章をぜひ読んでみたいと思うのでした。