新聞書評欄 6

 昨日に引き続きで、矢内原伊作ジャコメッティについて、宇佐見英治さんが記す
ところについて見ています。みすず書房からでた「迷路の奥」(75年)ですが、この
本の帯にはジャコメッティほかとすりこんでありまして、本の冒頭におかれたものは、
「法王の貨幣」というタイトルで「ジャコメッテイの思い出に」と副題がついていま
す。(しかし、この時代のみすず書房の本は、品があってこのましいことです。
外箱は簡易なものですが、一切文字がすりこんでなく、帯に書名と著者名がすりこま
れています。本の価格は二千円ですから、けっして安いものではありませんですが。)

「法王の貨幣」からの引用です。
「 八月の或る午後、かねて約束をとっておいたが、私は矢内原伊作がモデルをして
いる仕事の現場を見にいった。彼は多くの細長い彫像にとりかこまれ、アトリエの
ほぼ中央に置かれた椅子に姿勢を正して坐っていた。彼はまるで彫刻家の視線に焼か
れて自身がもう半ば彫像になったというように、また長時間の不動のポーズのために
顔がみなれた輪郭を散佚し、彼自身、顔の内側にもうひとつの、自分でも見知らぬ顔を
探り出そうとしているかのように見えた。彼が腰かけている椅子の下の床には、モデル
の位置を指定する白い線がチョークでひかれていた。ジャコメッテイはその夏は油彩に
よる彼の肖像ではなく、頭部の彫像を作っていたのである。・・・・
 ジャコメッティの作り出す彫像は、モデルの諸経験や生活史を示す軌跡というより
は、モデルの眼ざし、光の中に投げ出されたモデルの、個々の運命をこえた眼ざしを
粘土によって築きあげようとしているように見える。単なる相似ではなく、発現に
遡上って類似を確かめること、モデルの視線をとおして根源の時間を生き直すこと、
それこそ彼が志していることなのだ。」
 宇佐見英治さんのこのくだりを読みますと、なぜジャコメッテイがモデルとしての
矢内原伊作にこだわったかがわかるような気がします。