会議を終えて、図書館へ

 本日の午前には四半期に一度の会議がありまして、それにあわせて

出かけることになりです。会議メンバーはみなさん時間厳守のひとばかりで、

定刻よりも5分も早くに会議が始まることになりました。

 おおよそ一時間半の会議を終えてから、中央図書館へと行きまして、借りて

いた本のうち二冊を返却し、そのあと新着資料のチェックです。

こんな本が入っていたか、これは次に来た時に借りることにしようかと、目星を

つけることにです。次回に来る時までに、借りている本をすこしでも読んでしま

わなくてはいけませんです。

 ということで、本日に借りてきた二冊のうちの一冊は、次のものでした。

 坂川栄治さんは、著名な装丁家ですが、当方にとっては道北(北海道の北部)

の小さな町で生まれ、育った人という理解になります。ということで、これは郷土の

著名人の仕事と人物、それに関わった人についての本です。

(過去にも何度か坂川さんのことを話題にしておりますが、その最初は「遠別少年」

でありました。)

vzf12576.hatenablog.com 坂川さんの装丁集成というのではなく、その時々の背景も書かれているのが、

この本の特徴で、こういう本が出来るというのは、坂川さんの人柄によるもので

あるなと強く思うことです。

 今回の本にある坂川さんの本を見ていて、当方は年齢も近いし、どこかで

すれ違っていても不思議ではないなと思ったりです。そうはいうものの、当方

などは偏差値をものさしとする社会でうごめいていたこともあって、坂川さんの

ような経歴の人は、まるで眼中には入っていませんでした。ほんと恥ずかしなが

らであります。

 この本には坂川さんに寄せた豊崎由美さんの文章があります。その頭の部分

を引用します。

「1980年代後半、サブカルくそ野郎(自虐まじりの愛称と思ってください)御用達

の雑誌のひとつが『SWITCH』でした。海外の俳優や小説家のロングインタビュー

最先端のカルチャー情報が載っていて、毎号隅から隅まで舐めるように読んで

いたものです。そのアートディレクターを1985年の創刊以来4年間務めていた

のが坂川栄治さんだったのです。」

 1985年といえば、当方は二児の父親でありましたが、サブカル路線にはまる

で目を向けることはなしで、カルチュア雑誌といえばその当時は岩波「ヘルメス」

「ユリイカ」という感じでありました。

 「SWITCH」のことは知っていたと思いますが、ほとんど手にしたこともなしで

終わっていました。(「SWITCH」を購入したのは、文芸版がでるようになってか

らでした。)

 この本を見て、坂川さんが最初に装丁した本が、川本三郎さんが河出書房か

らだした「マイ・バック・ページ」であることを知りました。これは1988年刊行で、

その装丁ができるまでのことを当時の担当編集者である樋口良澄さんと、写真

家のオオタ・マサオさんが記していました。

 北海道から東京にでてデザインの仕事をしていた坂川さんが、長男であるから

という責任感から北海道に戻って札幌東急百貨店に職を得て、わずか一年で

やはり出版の仕事が仕事をしたいと東京に出たのが1985年となります。

その年に「SWITCH」の仕事に出会い、87年目黒パークハイツに事務所を構え

て、「マイ・バック・ページ」を担当することになるのですが、このパークハイツは

下目黒にあるそうで、同じころ下目黒大鳥神社そばに住んでいた当方は、目黒

駅までの往復のときに、坂川さんの仕事場のそばを歩いていたことになりです。

 川本さんの「マイ・バック・ページ」は、当方の偏愛の一冊でありまして、この場

でもあちこちに話題としておりました。元版、平凡社版、文庫版などを架蔵して

いるはずですが、最初の版の装丁者が坂川さんであったとは知らなかったこと

です。

 田村義也さん、平野甲賀さんなどの装幀に目が向いていた頃に、坂川さんの

本はほとんど意識しないうちに手にしていたということがわかりました。

 

明日は返却日で

 図書館から借りている本の返却日は明日に迫っていることです。

図書館ネットのマイページで、状況を確認しましたら、当方が借りている本は、

どこからも予約が入っていないようですので、読んでしまえるものは明日ま

でに読んで返却し、ネットで借り出し延長が可能なものは、ネットで手続きを

することにです。

 借りている本のうち二冊くらいは返却することができそうであります。

うち一冊は、まだすこしページが残っていますので、本日の午後から手にして

読んでおりました。

 この本で読むのが最後になったのが、冒頭に置かれたいわさきちひろさんに

ついての章でありましたが、いわさきちひろさんについては、読まんでもいいかと

も思っていました。

 これを読んでみたら、なかなか勉強になるのですね。次のように行司さんが

書いているのを見ますと、このいわさきちひろさんについての文章が冒頭に

置かれたかもわかることです。

「ちひろの私服が眠る安曇野ちひろ美術館の収蔵庫は・・・あるじ亡き後、静か

に時間を過ごす服の一点一点を手に取り、背景を探ると、ちひろのおしゃれへ

の思いや、日本の服作りがダイナミックに変化した1950年代から70年代の

服飾史の一端、服作りに関わったひとびとの人生が見えてくる。」

 いわさきちひろさんは、子どものころから母親の作った服を着ていて、おしゃれ

であったとのことです。長ずるに及び、今度は自分で服を作るようになったのだ

そうです。

 戦時中には、「服を縫う内職をして味噌や醤油などと交換した」ということで、

この時代のちひろさんの日記にはたくさんのデザイン画が描かれているとあり

ます。

 戦後からしばらくの時代は、服といえば、自作しなくてはいけなかったのです

ね。そうでなければ、生地を用意して裁縫を得意にする人に縫うのを依頼する

かです。そうこうしているうちに洋裁学校があちこちにできて、そこで学んだ人た

ちが、洋裁店などの看板をあげるようになったのですね。

「ちひろの服のなかに、ひときわ目を引くジャケットやコート、スカートがあった。

デザインは上品でクラシカル、布は極上素材、縫製は高級紳士服に通じる高度

な技が使われている。それらの服には「La Renee 」というタグが縫いつけられ

ていた。作家の向田邦子がミニ纏ったことで知られたルネの服だった。」

 この本の読みどころの、一つが「数々の表現者が愛した洋装店ルネ」につい

ての当事者の発言を紹介しているところでしょう。

いわさきちひろのところなんて読まなくてもいいかと思っていましたが、この洋装

店ルネについて知っただけでもよかったことで。(すぐに忘れたとしても。)

 当方が就職した1974年というと、すでにつるしといわれる既成品の紳士服を

購入するのが普通のことでしたが、それでも何着かはテーラーへと行って、注文

服を作ったものです。そうしたこの町のテーラーは、今はほとんど姿を消して

います。

 たぶん、女性向けの洋装店も事情は同じでありましょう。

 

明日は新聞休刊日

 明日が新聞休刊日ということで、明日のために本日の新聞は読まずにとっ

ておいて、本日は昨日の新聞を読み返すことにです。土曜日は読書欄が掲載

となりますので、まずはそれをチェックすることにです。

 昨日の読書欄、「著者に会いたい」は、鳥取で「野の花診療所」をやっておら

れる徳永進さんが登場です。診療所の開設は2001年とありました。

この診療所ができてまもなくに、施設を見学させてもらったことがあります。

このような施設の運営というのは、経営的にはとっても大変であると思うの

でありまして、なかなかこれに続く動きが大きくならないのは残念なことであ

ります。

 徳永進さんは78歳とあります。後継の方はいらっしゃるようですが、こうした

クリニックが近くにあれば、心強いのにです。

老いのみちしるべ

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vzf12576.hatenablog.  昨日の読書欄で目についた、もう一冊は、次のものです。

 森まゆみさんの新著であるようです。(どこかで連載をされていたのかな)

これの評者は御厨貴さんで、これがえらい褒め方なのですね。こんな書き出し

となっています。

「森まゆみ、ついにモノにしたな、中谷健太郎と由布院の聞き書きを。このすべ

てに、かする程度のつきあいの私には、どのページからも森と中谷の掛け合い

の様子が手に取るように浮かぶ。」

 由布院といえば人気の温泉地で、そこの駅周辺をすこし歩いたことがありま

すが、由布院が今の形であるのが、中谷健太郎という方とそのお仲間によって

ということがわかります。

 御厨さんは、森さんの本にある中谷さんの次の発言を紹介しています。

「先進地に視察に行くより、由布院とはどういう土地なのか、深く掘り下げ、

この土地の暮らしに根ざしたものを拾い上げてみたかった」

 これに続いて御厨さんは、「だから『村おこし』ではなく『村のこし』なのだ。

その後の中谷のアイデアの開花、役所や大資本の権力行使への抵抗、いずれ

もが地域に根ざす哲学から生まれゆく様を描く森のニコニコ顔が目に浮かぶ。」

と書いています。

 日本全国のほとんどの町村では、役所や大資本のちからを借りる形で、市街

地再開発に取り組んだり、他の自治体との合併したのですが、その結果はと

いえばであります。

 今となってみれば、これらはまちこわしを加速することになったようですが、

これらをしなかったところは、それじゃ良かったのかといえば、そんなことも

ないようで、前にも行けず、後ろにも行けないというのが、地方の現状であるよ

うに思います。

 子どもたちは、仕事をもとめて大都市圏へと移動し、地方はその親たちが

残って、高齢化が進むということになりますが、都会に移動した子どもたちは、

日々の生活に満足しているのかなと思うことで。

田舎の秋まつりかな

 いつもひっそりとしている拙ブログですが、昨日に某タレントさんの死亡が

発表されてから、いつもよりのぞきに来てくれる方が多いようです。当方が

それを記した時には、後年になって、このような反応になるとは思ってもいな

かったのですが、まあこれがSNSの悪しき一面となりますね。(もちろん、

当方は「はてな」を無料で使い続けていますので、収益とは無縁であります。)

 すぐにひいて行くでしょうから、しばらくは静かに見守ることにいたしましょう。

 本日の午前はトレーニングへと行きまして、お昼に戻って午後からはウトウト

としながら丸谷才一「今は何時ですか?」を読んでいました。(途中二度ほど

手にしていた本を床に落としていました。)

 「今は何時ですか?」は、単行本では65ページほどの短編でありますから、

あっという間に読めるはずでありますが、まあこれでもかというくらいに、多くの

要素が入っていて、その要素の一つ一つが興味深いのでありまして、それが

どのようにつながって全体を構成しているのかが、見えなくなってしまったり

です。

 ほんと面白く読んではいるのですが、この小説のことがわかったかというと、

わからんところはあるけども、ひどく面白いというしかありません。

そもそも、「今は何時ですか?」という小説の題にしてから、すとんと落ちていな

いかもです。

 この小説は入れ子構造になっていて、時代小説で直木賞を受けた小説家の

女性が、早世した愛人の記念のために小説を書くという体裁になっています。

「一週間ほどで新しい構想が浮ぶ。てこずったのは題をどうするかで、十ばかり

考へたがみな気に入らないし、しかも題が決まらないと書き出せないたちである。

当惑したあげく、以前に何かで読んだ笑ひ話を思ひ出し、そのなかの『今は何時

ですか?』といふ台詞を使ふことにした。もちろんこれだけでは意味不明だから、

笑ひ話をエピグラフにして飾る。エピグラフつきといふのはもともと嫌ひで、やった

ことがないけれど、今回は純文学だから特別といふことにする。」

 このようにして、入れ子の小説へと導かれていくことになります。

 まあ、小説を読む楽しみを味わせてくれることは間違いなしです。

 この「今は何時ですか?」の最初には、「天正九年九月九日は九が三つなら

ぶ」とあるのですが、そういえば、来年は九が三つ並ぶ年になりそうであります。

ふだんはあまり元号を意識することもないのですが、来年の九月九日はちょっと

特別かな。(これまでの元号の時に同じ数字がならんだのは平成11年11月11日

というのが最大でしょうか。昭和にもありますが、それは経験していませんです。)

重陽をすぎて

 「博文館」を話題にしているうちに重陽の節句を過ぎてしまいました。

例年、重陽の節句には、丸谷才一の小説を読むことにしておりました。

これまでは、初出の雑誌コピーで読みついでいたのですが、昨年末に待望

の単行本化となって、今年の重陽の節句は、この単行本で読むことができ

るのでありましたが、うっかり通り過ぎていました。

 これはいかん、本日は丸谷才一「今は何時ですか?」を読まなくてはと

思っていたところに、郵便屋さんが書籍小包(今はそうはいわないですね)を

届けてくれました。注文している本はないし、はてさてと思って宛名のところ

見ましたら、「著者代送」とプリントされていました。

 ということは、これに同封の本の贈呈を受けたということでありますね。

取り出してみましたら、これが入っていました。

涸沢純平 海の人 編集工房ノア 2026年9月7日発行

 編集工房ノアの涸沢さんの新著となります。過去の二冊は、ノアで出会った

詩人などについて描いたものですが、今回のものは、涸沢さんの故郷舞鶴と、

親族についての文章が収録されています。

 表題となっています「海の人」というのは、いわば私小説でありまして作者の

叔父にあたる人物についての連作。

「小西清秀のことを書こうと思う。しかし小西清秀といかにも重要な人物のように

名前をあげても、知る人はいないはずである。彼は著名な人物ではない。むしろ

交友は狭いほうではなかったか。想像するにささやかと思える周辺の人々と、

僅かな血縁の者たちでだけ。それも彼が死んですでに十五年が経過した今日

では、小西清秀の名前が人の口にのぼることはまずはないのではないか。忘却の

彼方に流れ去って人物でしかない。」

 このような書き出しで始まります。なるほど、小西清秀という名前は初めて目に

するものであります。

 この方は、「昭和47年の秋に、東京新宿のクラブ=酒場で、心筋梗塞を起こし

て死んだ」のだそうです。生涯独身で、東京で独居生活であったこの叔父につい

て記して、墓碑のかわりにするのですが、この叔父は無名の人ではあるものの、

なかなか振れ幅の大きな生き方を人でありまして、読んでいて興味を覚えること

です。

 連作の中では、この叔父の昔のエピソードが紹介されています。

「叔父には一度、結婚の噂があった。相手はすこし知られた歌手で、いまでもテレビ

のナツメロ番組には時に顔を出す。二人の仲は子供の私たちも以前から知るとこ

ろであった」

 叔父さんは明治41年生まれで、著者が高校の頃のナツメロ番組でありますの

で、この「すこし知られた歌手」というのは、当方の知っている方なのかなと思い

ましたが、この方の名前は、この本のあとがきで明らかにされていました。

この歌手の別れた夫という方が、これまたちょっと有名でありまして、当方も何か

の時に検索をして知ることになりました。

 この叔父さんは昭和33年7月に上海からの最後の引揚船で、舞鶴に上陸する

のですが、これがもう一つのドラマとなります。

 孤独のなかに亡くなったような人にも、あれこれとドラマがあることです。 

「新青年」も博文館かな

 昨夕に残りが百ページほどになっていた「伝説の出版社 博文館」は

本日の午前にめでたく最後のページにたどりつくことができました。

博文館というか大橋一族というのは、このようなことを人たちであったのかと、

初めて知ることばかりでありまして。

 明治から大正にかけて博文館からでていた雑誌は、関わった編集者の

名前は承知しているものの、雑誌名は頭に入っていなくて、もちろんその時代

の雑誌はまったく手にしたことはありませんでした。

 亡父が残した雑誌には戦前のものもあったのですが、大半は「アララギ」で、

一、二冊は大日本雄弁会講談社のものなどもあったと思います。

戦前は講談社が幅をきかせていて、それの他には「改造」とか「中央公論」が

あったというのが、当方の見取り図でありました。

 そこに戦前の博文館は、もっともっとスケールが大きいよと知らされるので

すから、びっくり仰天です。

 そもそも博文館という版元が大きくなっていった時期というのが明治中期か

ら日清、日露の戦争をきっかけにしてというのが、北海道に育った当方からす

ると神話時代の雰囲気となります。明治初めの北海道は徴兵令が免除されて

いましたので、日清戦争の時には、北海道出身の兵隊は参戦していません。

日露戦争になって、やっとこさで兵隊として従軍していまして、この町でも出征

する兵士を見送って駅に人が集まったとあるのですが、それを手記などで残し

ている人がまるでなくて、戦没者名簿の中に日露戦争で亡くなった方々が記録

されているだけです。

 当方が住む町の明治時代に博文館から出版されていた本を読んでいた人

などはいたのだろうかと、首をかしげるばかりです。

 戦前の昭和には、大橋一族で展開する事業は、出版から印刷、通信社などに

幅をひろげて、その関係で製紙会社の取締役にも就任というのですから、当方の

住む町と無縁ともいえないのですが。

 「伝説の出版社 博文館」では、大橋一族の二代目館主 新太郎について

次のように書いています。

「博文館の二代目を継いだ新太郎は、明治三十一年に東京瓦斯株式会社の

取締約に就任して実業界に頭角をあらわしてから、明治三十五年には大日本麦

酒株式会社、第一生命保険相互会社、三十六年に王子製紙株式会社の取締役

に次々に就任する。そして博文館の経営を大正三年以降、長男の進一に託すと、

自らは東京電灯、日本鋼管、三井信託、朝鮮興業など八十近くの大企業の重役

となり、『重役業者』の異名をとる。」

 こうしたことが仇となって、敗戦後には財閥解体と公職追放という処分を受ける

ことになるのですが、占領下にかっての博文館は姿を消してしまうことになります。

 旧博文館の雑誌のほとんどは、この処分で姿を消してしまうのですが、ただ一つ

「新青年」だけは、版元をかえながら戦後にも継続されて、昭和25年まで刊行が

続いていました。

 当方が若い頃に「新青年」から羽ばたいた作家さんたちが新しい読者を得て、

盛んに復刻されていました。当方はあまりなじみではなかったのですが、それでも

「新青年」という雑誌のことは知っておりました。

 「博文館」は、日記帳を販売している出版社ではないよというのが、この本で知っ

たことでありますが、どんなことしていたが、どんなコンセプトの会社であったのか

は、この本の「終章」に手際よくまとめられていて、お忙しい方は、この部分だけで

も立ち読みしてみてくださいです。

いまだ三分の二で

 九月に入ってすぐに読み始めて、今もメインで読んでいるのですが、なか

なかページを稼ぐことができてなくて、本日にやっと三分の二くらいまで進ん

だところです。読む時間が足りないのは、本を手にしたらすぐに眠りに落ちて

しまうことも影響しているのでしょう。

 三分の二ではありますが、ここまででも得るところの多い「伝説の出版社

博文館」であります。なにせ、博文館という版元は名前だけでいうと、明治の

半ばに設立されて、今も新社として存在しているのですから、近代以降の

出版社としては一番古いものなのではないのかな。

 明治期の出版事情などに明るくないこともあって、博文館が刊行した雑誌

についても知るところがなかったのですが、この本を読んでそうであったのかと

思ったことです。

 たとえば、次のようなところ。

「博文館が雑誌を売り出した戦略のひとつとして、刮目すべきは編集者の起用

である。今では編集者の名前を見て雑誌を購入する読者は稀であろう。現代の

ほとんどの雑誌はターゲットとなる読者層を明確に打ち出し、読者も自らをその

カテゴリーに当てはめて、そのテーマに沿った雑誌を手に取る。

 だが例えば、『少年世界』の巖谷小波が少年たちのカリスマであったように、

スター編集者が、読者をファンとして惹きつけていた時代もあった。博文館は

この戦略にのっとり、『太陽』にもスター編集者を誕生させる。そして、『太陽』や

『文藝倶楽部』はもとより、その他の雑誌にも明らかにその時々の編集者の顔が

見えるように仕向けた。その結果、これらの雑誌の特色はまさに編集者の時代に

よって明確に色分けされていくようになる。」

 雑誌は、時代を経るに従って、特定の読者に向けたテーマのものになっていく

のですが、そのなかにあっても、編集長の個性によって、そのテーマに関心の薄い

読者を獲得することはできるようでありまして、そうしたことができるのが、今どき

のスター編集長であるのでしょう。

 当方の頭に浮かんだのは、二玄社からでていた「NAVI」という雑誌の編集長

であったスズキさん。車にそんなに興味がなくても、これに連載されている矢作

俊彦の小説を読みたいがゆえに、これを買い続けたことがあります。

(そういえば、矢作俊彦さんは新潮「波」9月号で、筒井康隆さんと対談をしてい

て、これは面白い。矢作さんはもう10年以上新作がでていないな。)

 スズキさんは、二玄社を離れて新潮社から「ENGINE」という雑誌を立ち上げ

るのですが、むしろ二玄社時代のほうが面白かったことです。

 そうした個性の強い編集長というのは、当方が知らないだけで、あちこちに

いるのでしょうが、最近の雑誌が、当方のアンテナにあまりひっかからないのは、

当方のアンテナが錆びついていることもあるでしょうけども、あまりに内向きで

あるせいかも知れません。

 そういえば、スズキさんはNHKで放送の旧車番組にもクレージー剣さんと

でていましたが、最近は番組がないようです。