長年居住する人間

 昨日に引用した寺田透さんの「自分自身自覚しているひとっところに長年居住する
人間」についてであります。
「ひとっところに長年居住する」といっているくらいですから、寺田透さんのまわり
には、そういう人が少なかったのでしょう。たぶん、旧制高校の同級生には親の代か
らの学者という人で、そのまま親の敷地内に家を建てて住んでいたなんて人たちが
いたのでしょうが、「文学者」となると、地方出身者が多かったからでしょうか。
 この場合の長年居住というのは、ひとっところに50年住んでいることのようです。
 寺田透さんが、井伏鱒二さんについては、次のように記しています。
田中貢太郎の媒酌で、大正15年10月結婚。このとき井伏は新開地だった東京豊多摩
郡井荻村字下井草1810番地に居を構えており、その後半世紀、ここが名称こそ変わっ
たものの、彼の現住所である。といって、彼が当時一般の文学青年なみに貧乏だった
ことと矛盾はしない。」
 井伏鱒二さんの結婚について、ウィキでは昭和2年10月とありますので、一年の差が
ありますが、どちらのしてもそのとき井伏さんは、30歳前ですので、居を構えること
にあたっては親の援助なしにはできなかったでありましょう。
 それにしても、これから亡くなるまで60数年にわたって、ここに住んでいたので
ありますからして、これは長く住み続けたといえるでしょう。
 別なところでは、次のようにもいっています。(どうも寺田さんは、井伏さんの
結婚は大正末年と思っているようです。正しくは昭和2年です。)
「大正末年から半世紀の余同じところに住み、新奇なことを求めない井伏さんの資質
がわれわれに伝わってそういう思いをさせるのか。それも一つの説明だろう。その
一方、井伏さんというひとの作家的素質が、その見かけ、というより見せかけに似ず、
非常に強力で本質的に小説家的だったため、作品の時代喚起の力が非常に旺盛で、
われわれは、おかげで、半世紀にわたる動揺と破綻と混乱にもかかわらず、われわれ
がここにこうしている以上なにかひとつづきに続いているもののあったことを、歴史
の連続を、われわれのうちによみがえらせるように為向けられるからだという気も
する。」
 つまり寺田透さんも、このようにありたいということなのでしょう。