建築家つながり 6

 松村正恒さんは、八幡浜市役所職員として公共建築の設計を担当したのですが、その
時代においても、市役所建築課職員が設計を担当するというのは、珍しいことであった
のではないでしょうか。最近は、お役所の建築士の役割というと、自ら図面を引くこと
ではなく、建築事務所との協議で図面を作り上げ、建築業者の施工を管理することのよう
です。
 松村さんの時代よりも、いまの時代のほうがお役所で働く建築士は、仕事のやりがいが
ないようにも思えます。
 松村さんは、学校を卒業してから土浦亀城事務所にはいり、そのあと農地開発営団
移り戦時下をすごします。昭和二十年に故郷に帰り、昭和二十三年に八幡市役所に就職と
ありました。
 松村さんによる自筆年譜には、次のようにあります。
八幡市役所に空席あり。未知の世界、古き慣習、旧態依然。落成式工事報告を担当、
型破り、図書館のとき『灯が点る、手塩に掛けし娘を嫁に出す母親の気持ち。』聞かれ
し、助役、目に涙。」
 このくだりへの自注となります。
「市役所へと入ったのは、いわゆる食うためですが、いつも辞表を懐へ入れて仕事をして
いた。自分の考えを通すために。地方新聞にたびたび投書をして、都市計画、建築という
のはこういうものだとわかりやすく書いて、頼まれもしないのに運動しながらやった。
それはそれで充実した時代だった。
 役所の世界も、巻かれてしまったらだめです。でも、こっちが巻き返す気があれば、
できる世界ではあるのです。利害関係のない仕事をする。利益を生む必要のない仕事を
するから、自分がその気だったら、市議会議員に対してでも敢然と向かって説得できる。
それをしない人は無能だと私は思う。」
 公務員の志望動機に、安定しているからということをあげる人がいますが、松村さん
の公務員であった時の流儀は、その対極にあったように思います。 
松村さんが八幡浜市の職員であったのは、昭和二十三年から昭和三十五年までの十二年
に過ぎませんが、今では考えることができませんが、この間に大洲市からの依頼で
新谷中学校を設計したほか、他自治体のための学校つくりも行っています。こういう
ことが可能となる時代であったということですね。