平凡社つながり 8

 二足のわらじといっても、平凡社 小林祥一郎さんのように月刊「太陽」
新日本文学」の編集長を兼ねるというのは、なかなかあるものではありません。
大学の先生などが教授と学会の事務局長を兼ねるというのとは、ちょっとちがいます
でしょう。この二足のわらじのことを平凡社がどう思っていたのかわかりませんが、
下中弥三郎社長自身「社業のほかに、たえず社外の組織や運動にかかわり、その役職
についていた」のでありますから、同僚はともかくトップは寛容であったのでしょう。
「『新日本文学』では、針生一郎さんのあと、編集長に推薦された。わたしの置かれ
ている状態で、編集長がつとまるわけはないが、ことわり切れなかったのは、運動の
任務感と、またしても愚図なわたしの性格による。しかし平凡社から安くない給料を
もらっていたから、編集局長の友野さんには事情を打ち明けた。」
 この編集局長は、林達夫さんが百科事典の編集長を引き受けるときに、中央公論社
から引き抜いてきた人で、この方なくして林達夫編集長の評価はあり得ないといわれ
ている方であります。
  小林さんは、この友野編集局長に「『新日本文学』で働く分、給料を削ってほし
いとお願い」したそうでありますが、「申し出は殊勝だが、会社の仕事をきちんと果た
せばいいのだから」というような反応であったとのことです。
 その当時に平凡社で二足のわらじのかたとして、小林さんがあげているのは、次の
ような面々です。
「児童部門部長の瀬田貞二さんは、すぐれた児童文学の翻訳者であるし、百科事典で
美術を担当した安東次男さんは、詩人でフランス文学の翻訳者で、のちに東京外国語
大学の教授になった。音楽部門の担当者、戸口幸策さんは『世界大百科』の編集が終わ
ると、イタリアに留学し、オペラ研究者として知られるようになった。哲学の荒川幾男
さんは哲学書の翻訳をしていて、のちに東京経済大学の教授になった。百科事典では
物理を担当していた中原祐介さんは、美術評論を書きはじめていた。『世界の子ども』
編集部の江原順さんっはエリュアールの翻訳者であり、百科事典部で教育・社会の担当
者だった加藤九ぞうさんは、シベリア抑留の体験でおぼえたロシア語に堪能で、シベリア
の人類学の研究者として、のちに梅棹忠夫さんの国立民族博物館に招かれる。二足の
ワラジをはく先輩、友人が平凡社にはあちこちにいた。」
 このようなタレントを多くあつめて作っていくというのが百科事典の編集であると
いうことがわかります。平凡社の編集部がユニークなのは、百科事典の各部門のために
すぐれた人が配されていたことによるのでしょう。
 それじゃ百科事典がいけなくなったら、どうなったのかであります。