小沢信男著作 194

 小沢信男さんが「生涯かけて好きな本つくりの夢を追いつづけていた」というのは、
亀山巌さんについてもいえることであります。
 亀山巌さんは、会社人としても相当に異色の経歴の持ち主でした。この時代であり
ましたら、こういう生き方は許されるでしょうかと、そのプロフィールを見て思い
ました。名古屋タイムス社という会社がどのようなものであるか、当方はよくわかって
おりませんが、とにかく、その会社の社長を勤めるかたわら「名古屋豆本」の版元を
やっておられました。
 名古屋豆本とはなんぞやと、小沢さんは「辞典ふうに」紹介しています。
「『名古屋豆本』一九六七(昭和42)年に開板された。版元の亀山巌は当時六〇歳、
名古屋タイムス社長。豆本の立案、編集、装丁等の作業のおおかたが、重責ある社長室
のディスクで、暇つぶしと称しておこなわれた。年四冊およびカレンダー一冊の、
計五回刊のペースを維持し、さらに別冊も加えて悠々二二年。
この間、亀山は一九七四年に社長職を辞し、その後は名古屋市民文化委員会委員長、
名古屋市芸術創造センター・名古屋文化振興事業団理事長、雑学倶楽部会長等を歴任
した。中京における斯界の重鎮でありながら、本人は遊民、または名古屋豆本版元を
もって任じた。著者の選定から、装幀から、発送の封筒の表書き、ポスト投函まで、
めったに余人の手は借りない版元ひとりの心をこめた道楽であった。
 豆本の体裁は、タテ10センチ×ヨコセンチ、厚サ1センチ前後。一六ページ掛の四台
から六台分。部数は三〇〇部。当初は中綴じで、時に小口三方金押しの箱入りなども
あったが、第十一集より糸綴じ洋製本仕立てと一定する。掌に入りそうな小型ながら、
見返しも扉も奥付もハナギレもある、一人前の堅表紙本である。・・
この多年にわたる刊行には、制作を担当したオカダ印刷社の岡田孝一・藤森節子夫妻の
献身的協力が見逃せない。
 亀山は一九八九(平成一)年五月没。翌年の一周忌に第一一六集として、亀山巌講演
録『私の生きた時代」が版元代行岡田孝一によって刊行され、これにて打ち止め、別冊
二八集とあわせて計一四四集の足跡であった。」
 豆本というのが好きかどうかは別にして、版元には、このような地道な努力が欠かせ
ないということですね。ここには書かれていませんが、たぶん、お金の苦労もあるので
しょうが、これは道楽にはお金がかかると思うしかないでしょう。