メディア・アート創世記 12

 坂根厳夫さんは、新聞記者でありながら、自らの企画による展覧会のキュレーターを
勤めていたとありました。最近は、ある程度名前が売れてしまえばフリーのライターに
なったり、大学教員になるジャーナリストが多いようでありますが、坂根さんは定年退
職まで朝日新聞に勤務して、その後に大学教員になっています。
「1989年、当時は58歳定年で朝日新聞を退職したが、60歳定年への過渡期だったた
め、その後も2年間は嘱託として残ることになった。とはいえ、かなり自由に外部の仕事
もできるようになり、89年には福岡で開かれたアジア太平洋博覧会西部ガスパビリオ
ンのために、『フェノメナート展』を企画した。・・・」
 ちょっと先に話がいってしまいましたが、80年2月からは「新・遊びの博物誌」
の新聞連載が始まりました。これは全部で70回の連載とのことですが、当方は、ほぼ
すべてを切抜きしてスクラップしているようです。
 昔の新聞記事は、このような感じでした。

 いまとくらべるとずいぶんと文字がつまっていることです。本年4月からは現在よりも
さらに文字が大きくなって読みやすくなるということですが、このような大きな連載は、
ますます姿を消すことになりそうです。それなりに力のある記者さんはいるのでしょう
が、それにしても昔とくらべると元気がないように思えますね。
 それはさて、この連載はまとまって82年3月に刊行されました。


 このあと、この「遊びの博物誌」(正・続)は朝日文庫にもはいりました。